ザ・ヤードバーズ「For Your Love」

ヤードバーズの物語は、3人のギタリストの物語として、今もロック史に残る

(2012年09月26日更新)

  • 「ヤードバーズに18ヶ月いたおかげで、やっと僕は自分の音楽に真剣に向き合うようになった。」 エリック・クラプトンはそう言い残して、バンドから離れ自らの音楽を追求する道を歩き出した。 彼はファンの女性に騒がれることよりも、自らのブルースに真摯に向き合うことを選択する。 持て余していた自分の音楽の才能の向かう先を知ったことで、始めて自らの生きる道を見つけたのかもしれない。 ヤードバーズというと、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ジミー・ペイジという、ロック界の三大ギタリストを育てたグループとして有名である。 彼らの演奏は、実験的なサウンドや従来の音の常識を壊した、ラジカルな音楽を世に送り出し、後世のミュージシャンにも多大な影響を与える。 何故、有能なギタリストがこのバンドに集まったのかを考えるとき、それはバンド自体が持つ不完全さと、当時の若者の流行で、以降大きく音楽的に発展するR&Bを追求したバンドだったからではなかろうかと思う。 演奏の中にギターソロを十分に盛り込んだのもこのバンドだし、ロックにエレクトロニクスを積極的に取り入れた曲作りをスタンダードにしたのも、彼らの功績によるところが大きい。 しかし、ヒットらしい音楽も無く、女の子の声援があるわけでもない。 彼らのジレンマはそうした積極的に新しい音楽を作り出していく中で、同時にポップスの魅力にも惹かれてしまったところで、この相反する性質の音楽を作り上げようとしていたことにあった。 その矛盾が、演奏技術の高い、影響力がある実力派バンドでありながら、その音楽が浸透しなかった理由なのかもしれない。 ヤードバーズの前進は1963年にキース・レルフが結成したメトロポリタン・ブルース・カルテットだった。 当時のイギリスのロンドンはトラディショナル・ジャズのリバイバルをきっかけに、多くのミュージシャンが、R&Bに傾倒していき、少し前にはローリング・ストーンズやジャック・ブルースなどが、R&Bを演る若者として既にステージに立っていた。 そんな中、バンドもロンドンのR&B専門のクラブに出演し、少しずつだが名を売っていく。 その後ギターのトニー・トーパムが両親の反対を理由に脱退し、クルーカットの青年エリック・クラプトンを迎え入れたことで、バンドの演奏力は一気に上がる。 また、クラプトンの加入により、チャーリー・パーカーのあだ名「ヤードバード(囚人)」から取ったバンド名、「ヤードバーズ」を名乗るようになる。 やがてローリング・ストーンズの後釜として出演した、リッチモンドにあったクロウダディというクラブをホームステージとして活動するようになると、クラプトンの演奏目当てに客が集まり始める。 その様子を見ていた、クラブのマネージャーだったジョルジョ・ゴメルスキーは、すぐさまバンドのパーソナル・マネージャーを申し出ると、デモテープを作ってはレコード会社に売り込み攻勢を仕掛ける。 その甲斐があってか、レコード・ミラー誌のR&B人気投票部門で、ストーンズやマンフレッド・マンに続いて3位にランクされる。 レコードデビューを果たしていないバンドとしては異例の知名度で、それだけ彼らのライブに人が集まってきた事が分かる。 特にクラプトンの演奏はイギリス中誰よりも深遠なメロディーを奏でることができ、ゴメルスキーはそんな彼に、「スローハンド」というあだ名を付ける。 さらりとものすごいテクニックを見せるからで、以後もクラプトンのニックネームにもなった。 しかし、彼らの音源はライブにこそ花があり、スタジオ音楽ではおとなしくなりすぎてしまうということから、アルバムの制作も難しく、待望のファーストアルバム「Five Live Yardbirds」も、ライブ音源となってしまう。 アルバムの内容は大半がブルースのカバーで、当然ながら音楽の人気を支える若い世代の受けは、1曲に30分を費やすジャム・セッションのようなスタイルよりも、ストーンズのようなきらびやかさを求め、ヤードバーズのアルバムやシングルカットされた曲は大きくヒットすることは無かった。 ヴォーカルのキース・レルフやマネージャーのゴメルスキーにとってはそれが不満で、彼らはヤードバーズを人気バンドにしたかった。 逆にクラプトンはヤードバーズを本物のブルース演奏ができるバンドにしたかった。 両者の考えの違いがはっきり現れるのが、チェンバロをイントロに導入した、「For Your Love」というシングルカットされる曲で、完全なポップ嗜好のこの曲をバンドが演奏することを、クラプトンは最初反対する。 しかし、説得されて渋々ブギ風のパートを演奏するが、手持ち無沙汰だった彼は、曲の合間はベンチでふて寝していたという。 そして、この曲が発表される頃には、クラプトンはバンドを脱退する。 その後、演奏を辞めて工事現場で働いていたが、後にジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズに加わり演奏をすることになる。 クラプトンの後釜としてジミー・ペイジに声がかかるが、クラプトンと学友だった彼は、他のスタジオセッションが忙しいのを理由に、代わりにジェフ・ベックを紹介する。 ベックの加入で、バンドは今ではギターテクニックとしては珍しくもない、ファズ(歪み)を多様したナンバーを発表し、ポップな曲作りをはじめていく。 ベック在籍時には、ペイジがベースとして加わり、後にベックだった以後はメインギターリストとして参加することになる。 クラプトン後のヤードバーズはこの天才的な二人のギタリストに牽引され、様々な試験的な音楽を作り上げていく。 ペイジの時代には、バンドは完全にペイジのものとなり、次第にメンバーの中に不協和音が聞こえ始める。 やがて1968年7月7日に、オリジナルメンバーのキース・レルフとジム・マッカーティが脱退し、残されたジミー・ペイジが「ニュー・ヤードバーズ」を結成することで、その後バンドは「レッド・ツェッペリン」へと変容していく。 ヤードバーズの物語は、3人のギタリストの物語として、今もロック史に残る。 同時にバンドはその踏み台として、語られることが多くある。 しかし、彼らの音源のバラエティさに触れると、踏み台と言われた彼らの底力を感じることができる。 その音源こそがバンドの象徴であり、大きな個性があった証である。 ヤードバーズの解散は、そのバンドの名前の大きさゆえに伝説となり、また、メンバーはその大きさゆえに離れていくしかなかったのかもしれない。
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