百田尚樹 永遠のゼロ

考察と現場感覚を備えたものは、説得力があるものである

(2013年10月14日更新)

  • 机上の空論という言葉がある。 机の上だけの理論では、現場では役にたたないことがあるということだとは思うのだが、こういうことは会社組織にいると、往々にしてよく感じることがある。 僕は管理職ではないが、自分の業務内容の中で、仕事の指示を現場社員に行うことがある。 その際に想像の中で現場の仕事を想像し、無理が起きないよう段取りを行い、それをマニュアル化して指示にしていくという課程を踏むのだと思うのだが、この時に現場感覚が無いと、必ずと言って浸透はしない。 この場合の現場とは、会社組織では実際に利益を上げてくる社員のことなのだが、机の前だけで仕事をして、この現場感覚を失うと、指示は虚しく空回りしてしまう。 しかも自らの指示が現場を知らずに上手くいっていないと考える人はまだマシで、ほとんどの人は、なぜ自分の指示が空転しているのか理解できずに、ともすれば、現場が馬鹿だから的なことを言って、自らのことを反省をしない。 この思考は一種の差別感覚に似ていて、自分は優れていて相手は優れていない、という論法で組み立ててしまうために、指示を達成するのも優劣に基づくと勘違いしてしまう。 僕はこういう考えを「マッチョ思考」と呼び、自分がこういった「マッチョ思考」にならないよう、普段から自分の行なった行為や、言動に現場感覚があるかを常に考えるようにしている。 日本が負けたあの戦争の話をする時、この「マッチョ思考」は、必ず端々で顔を見せる。 何故日本は勝てない戦争に進んで行ったのか。 何故本土決戦前に戦争を辞めようとしなかったのか。 これらすべての答えこそが、軍部のマッチョ思考に有り、いわんや日本の思想にもである。 と言うことをよくテレビや本や、その他いろんな戦争にまつわる話をする見聞きすると、結論づけて、日本の全体の思想として、間違った国家主義的なものがあったことを聞かされる。 同時に僕たちは、戦争というものがいかに悲惨であり、そして二度と戦争を起こしてはいけないという決意をさせられる。 日本が戦争に進んだのは、列強の圧力にあったためで、侵略戦争ではなく、自衛の戦争だった。 日本の人々は祖国を守るため、祖国のために命を捧げていった。 日本の軍部は愚かしく、責任を持たない無責任で、無策の組織だった。 ここまで書いていても、書いたことに間違いは感じない。 しかし、どこかでまるで絵空事のような印象を受けてしまう。 まるで元寇の話をしているかのような、どこかの国の遠い昔話しのような印象というのだろうか、自分たちの話をしていないようにいつも感じていた。 同じく戦争中は世界を相手に戦って負けたドイツは、あの頃のドイツは悪かったと認めているそうだ。 その潔さは、日本にはちょっとない感覚である。 その代わりにドイツ人の意識の中に、今のドイツはあの頃のドイツとは違うと思っているようで、まるで海の向こうの戦争の話のような感覚をもっているようだ。 ユダヤへの虐殺は、前のドイツ人がやったことで、私たちではない。 ヒットラーは特殊な悪だった。 そんな風に受け取れる。 しかし、果たしてそうなのだろうか。 僕は予々戦争について日本人が語るときに現れる、国家主義的な、自己犠牲をあたかも美しいことのように説いて行くことに、違和感を感じていた。 もちろん物語としての自己犠牲は、涙するし、感動もするのだが、現実の人生の中で自己犠牲が美徳であると言われると、さっぱりそうは思わない。 自己犠牲を言葉軽く訴える人々は、どこかで、机の上だけで指示をして、その指示が現場に即していないにもかかわらず、できないと現場のせいにしているだけの人々と同じに感じてしまう。 多分この考え方が、あの戦争で日本人が行った数々の行為を美化し、日本はそんなに悪くない、と声高に主張する時のロジックと似ているように感じるからかもしれない。 大きな意義の前には犠牲はつきもので、その犠牲のもとに我々の大義は達成される。 そして犠牲を払った人々がいるからこそ、日本は悪くない。 しかしこの考えの中に、犠牲を払う当事者の考えはない。 現場の意見を汲み上げない指導者と同じである。 こういった輩は多分、指示に対しできないものについては、犠牲を強いるだろう。 自己犠牲の美徳こそが、さも歴史的な必要から導き出されたもので、日本人は全て、アジアの抑圧された国のために、または美しい祖国のために、または愛する家族を守るために戦争を起こしたと言う主張にすり替えられている気がしてしまう。 しかし、その時代を生きた人々にとってはどうだったのか。 当時の人々も、多分戦争に行くのは嫌で、お国のために死ぬぐらいなら、逃げて帰ってきたいと願ったろうし、何より、現実の戦争に馴染むことはできなかっただろう。 僕は慰安婦の軍の関与に関する問題や、朝鮮人への虐待についても、評論家の人々が主張するように、賠償としては行うべきではないとは思うのだが、「無かった」とは言い切れないように思う。 軍人が全て男であったのなら、短略的に女性をあてがうことは考えたろうし、軍部の人間が同族である日本人を、作戦のコマくらいにしか考えていないのだから、朝鮮人を無理やり兵士にした、というようなことはあったろう。 こう言った生の感覚を知らずして、歴史見聞のみで、日本は美しい国で、あの戦争によって、沢山の希望を他のアジアの国々にもたらしたかのような印象で話をすると、それは大変危険な気がする。 むしろ必要なのは、正しい知識に基づいて、現場の意見、つまり戦争の生々しい部分を知ることが、重要なことのように思う訳である。 いつもながら前置きが随分と長くなってしまった。 「永遠のゼロ」は、あの戦争の実態を、零式戦闘機のパイロットにスポットを当て、戦争とはどういうものなのかを描き出した、生の感覚のある物語だ。 久しぶりに感動をした小説だった。 多くの主戦を戦ってきた兵士の、間接的な生き方を見ることで、僕たちは、戦争というものがいかに冷酷で、そして人間臭い部分があって、そして同時に当時の日本人が高潔であったかを知る。 また、当時の日本が行った行為が、いかに残虐で、短略的で、間抜けであるかも見えてくる。 史実としてこの物語を見た時に、いつもどこか奥の方で引っかかっていた、喉の中の魚の小骨が取れたような、合点が行く部分をいくつか感じることができた。 人間の物語として見ても、説得力があり、深い悲しみと、感動に包まれる。 あらゆることに通じるのかもしれないのだが、深い洞察と現場感覚を備えたものは、説得力があるものである。
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