谷崎潤一郎 春琴抄

嬲られることを夢想した時に、ささやかな興奮を覚えるのであれば、この物語は一層美しいものとして見える

(2013年01月15日更新)

  • 2013年1月15日の読売新聞で、谷崎潤一郎が過去3度程ノーベル文学賞の選考に名前が上がり、その内1回は最終選考の5人に選ばれたという報道があった。 川端康成が、日本で初めて同文学賞を取る前の話である。 素人考えでも、谷崎作品は、海外で評価はあるだろうなあとは思うのだが、同時になんとなく危うさを感じてしまう。 谷崎作品は数点学生時代に読んだのだが、有名な「細雪」何かは、まだ程度は軽いのだが、全体的に谷崎作品は変態性が強いように思う。 なんとなくだが、女性が男性を支配する世界や、とても筆舌し難いエロの世界が、時に直球で、時にどこかしら漂う淫靡な何かがあり、とてもではないが文芸と呼ぶには疑問符がつくものがあるように感じる。 まあ、大なり小なり、文芸とはエロをテーマにしたものが多いのだが、ここまで開け広げでエロを解放されると、「ええんかいな」とは思ってしまう。 話は変わるが、僕はSである。(変わっていないですかね?) Sと言っても、人が苦痛を強いられている姿を見て高笑いするとか、そういう支配欲の強いSではなく、自らが少し上の位置にあると思い込んでいる、おめでたいタイプのSである。 例えば先日京都の清水寺に初詣に行ったのだが、丁度音羽の滝の上の、なんとかという神社の前から清水の舞台を見ると、沢山の人が、舞台に入っては奥に引っ込みというのを繰り返す光景があった。 僕はそれを嫌な笑いを混ぜながら、まるで蟻の群れようだと冗談交じりに言うと、嫁が少し引きながら、「性格悪いなあ」とつぶやいた。 まあ確かに発想は最悪なのだが、そう見えてしまったのだから仕方がない。 しかし、冗談で、とは書いたのだが、「蟻のようだ」の中には確実に人を見下した感があって、それは人の集合する姿に対し使った言葉が、蟻が集まって動いているような気持ちの悪い光景を指している。 人が集まる姿にそんなことを思うのは、やはりどこかで屈折していると思わざるを得ない。 自分の例が正しいかどうかは分からないが、Sである人は、単純にプライドが高く、自身の優越性を勘違いして悦に浸っている場合が多く、逆にMの人は、誰でもいいわけではないだろうが、自身の存在を否定されることに、快感を覚える人が多いと思う。 そういった意味で、SもMも、倫理を持った人としては、少し人間失格ではなかろうかと思うわけである。 谷崎文学には、マゾヒズムが確実に存在する。 そこには人が人に行う仄かな被虐性が潜んでおり、そこに滅びの美しさともいうべき、独特の世界観が構築されている。 その文学性は結論づけて、人間の業の深さにスポットが当てられ、結果美しくもあり儚くもあったりする。 谷崎の文学には、痛めつけられる男性の姿が描かれる。 その最大たる作品は春琴抄だろう。 読んでいない人はウィキっていただくと良いのだが、主人公の佐助のMっぷりたるや、もの凄いものがある。 盲目の春琴が、顔にやけどをしてその顔を佐助に見られたくないだけで、彼は両目を針で突いて自分も見えなくしてしまうのだから、正気の沙汰ではない。 戦前の小説は比較的正気でないものは多く見られるのだが、佐助の行動を今やると警察出動ものである。 ただただ怖いのである。 僕はこの小説を読んだ時に、何となくだが春琴の方にシンパシイを感じた。 彼女は自分のために目を突いた佐助に対しどう思うのか。 多分気持ち悪いだけである。 佐助の行動は、S側の人間からすれば愛ではなく、ただのエゴであって、彼女が望むのは佐助の完全なる支配であって、自らの考えが事の通りに動くことである。 佐助もまた自らのエゴが達成されるべく、献身の名を借りたマゾヒスティックな嗜好の達成であって、そこに純愛なる姿はおそらく存在しない。 もしも貴方が、愛するものを奪われ、嬲られることを夢想した時に、ささやかな興奮を覚えるのであれば、おそらくこの物語は一層美しいものとして見えるのかもしれない。 残念ながら僕には、佐助はただの馬鹿者に写ってしまったが。
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