志賀直哉 清兵衛と瓢箪

お腹まわりにも無駄なものが付き始めた自分の生き方が恥ずかしくなってしまいそうだ

(2013年02月03日更新)

  • 完全に先日読んだコラムからの知識だが、2013年1月26日に安岡章太郎さんが亡くなられた翌日の読売新聞だったと思うが、安岡さんと志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」にまつわるエピソードが掲載されていた。 当時脚本の仕事をしていた安岡さんが、志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」を映像化することになり、四苦八苦の挙句、何とかドラマにするのだが、色々な蛇足がついてひどい出来になってしまった。 楽しみにしていた志賀直哉自身も、見ていて頭痛がして寝込んでしまったというから、よほど内容が小説から遠のいてしまったのだろう。 若い頃の誰しもが持っている、恥ずかしくなるエピソードなのだろうが、志賀直哉の小説を読んだものならば、多分「そりゃ、ある程度の尺のある映像だと脚色せざるを得んわなあ」とは思うはずである。 志賀直哉の小説は、ムダを省いて骨と皮だけになったうような、しかし、きちんと付くべき筋肉はつけられた、無駄のない文章が定評である。 実際に推敲時に、無駄な文字や言葉を根こそぎ削いでいって、完成させたというので、それが志賀直哉の美学でもあったのだろう。 こんな話を聞くと、無駄なモノだらけで、おまけにお腹まわりにも無駄なものが付き始めた自分の生き方が恥ずかしくなってしまいそうだ。 僕は角川文庫版の志賀直哉の「清兵衛と瓢箪」の載った全集を持っているので、そこに載っているものは一通り読んだことがある。 最近もちょっとした暇に読んだので、内容は結構はっきり覚えている。 最近読んだ感想は、昔読んだ時とさして変わらず、何だかごく普通な内容のものが多い気がして、物足りないような気はしたのだが、話はなんだか心のどこかに残る。 読むと結構はっきりと情景も浮かび、清兵衛の集めた瓢箪の形まで思い浮かんだ。 これこそが文豪の力なのだろうが、やはりこの小説は、小説として優れているのであって、映像にして優れたものではないような気がして、「ああ、自分も刺激を求める現代っ子なのだなあ」と変に感心したりしてしまった。 話は変わるが、僕は比較的モノに対しての執着が薄いようで、基本的にケチなので物持ちは良いのだが、物自体に対して愛着はない。 大切にしているものといえば、家の方々に置かれた合計300枚近いCDなのだが、コレクターでもないので、ちょくちょくどこにいったかわからなくなることもある。 なので、この物語のように瓢箪に愛着を持つ感情が完全にはわからない。 しかし、人の親になって、子どもがどう見てもゴミにしか見えない人形だの、折り紙だの、紙粘土だのを大事に直している姿を見ると、清兵衛の瓢箪に執着する気持ちも、瓢箪を諦めさせた親の気持ちも分からなくはない。 子の立場だと、そのモノ自信に愛着があって捨てられず、親の立場だとそんなものを部屋に飾るくらいなら、参考書を置きなさい、と思ってしまう。 しかし昨今の教育論でもあるように、子どもを頭から否定せず、尊重することで才能が伸びる、というようなことはあるようで、確かに子どもの自主性を重んじれば、僕にはゴミにしか見えないものも大切な才能の切れ端なのかもしれない。 しかし、「清兵衛と瓢箪」も物語の締めは、最近絵を書き始めた清兵衛の絵についても、そろそろ親が小言を言い始めたというところで終わる。 昔の教育は確かに型にはめることで、その人間をまっとうにするように育てていた。 今は自主性を重んじるあまり、「世界にひとつだけの花」になることを推奨している。 しかし、本当の個性というものは、型にはめることで枠からはみ出し、枠からはみ出すからこそ、それが個性として輝くのである。 安岡さんのエピソードも、僕はそのドラマを観ていないので内容は分からないが、その素晴らしい小説の世界観を守らない型破りなところがあるからこそ、個性が見え隠れするものだと思うので、案外に若い自分の荒削りな部分としては面白いものが出来上がったんじゃあないかなあ、と思うのである。 志賀直哉氏の精緻な世界観がなければ確かにそのタイトルを名乗ってはいけないのかもしれないが、安岡さんの物語としては、見るべきものがあるような気がする。 そうした物語への熱心さが安岡さんを一流の文芸家に育てたのだと思う。 何をおいてもひとつの事を追及する真摯さを持つことが、一番の才能なのかもしれない。 ご冥福をお祈り申し上げます。
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