太宰治 人間失格

人の世への嫌悪が確かにあり、「人間失格」である部分を持っていると感じた

(2012年04月14日更新)

  • 僕の家族は昔から漫画が好きで、特に父は週間で10冊以上の漫画雑誌を購読しており、漫画には不自由しなかった。 僕自身は小学3年生から現在まで続くジャンプ愛好者、通称ジャンパーである。 そんな環境にあった学生時代に、確かビッグコミックスピリッツに載っていたと記憶しているのだが、相原コージの「コージ苑」と言う漫画が流行った。 内容は4コマ漫画で、コージ苑の名のとおり、五十音順に漫画が進んでいくのだが、4コマの手法を使いながら、内容は次に続くシリーズものの形で、最後の「ん」までに物語が完結していく。 手法は当時としては斬新で、かつ4コマにあるまじき下ネタが各所に散りばめられている。 この漫画に、奇妙な男が登場する。 この男は、ほとんど言葉は発しないのだが、ショックを受けるとすぐに首を吊ろうとしたり、入水自殺しようとする。 太宰治をイメージしているらしく、「生まれてすいません」と書き置きを残し、時には知り合った女性と入水自殺しようとする。 内容はかなりのブラックユーモアだが、太宰自体を面白いと思う作者の感性が一番ブラックユーモアである。 太宰治と言えば、海外でも三島由紀夫とともに名前が知られている作家の一人ではないだろうか? 日本でも文豪の名前を学生に上げさせれば、ベスト10位に入るくらい、ネームバリューは十分の人である。 しかし、意外と作品の内容は知られておらず、国語の教科書にも載っている「走れメロス」や、映画にもなった「斜陽」や「人間失格」は名前くらいは知ってるのかもしれない。 僕が太宰で面白いと思うのは、女性の目線に立った小説が数作あって、特に昭和の文豪が女子高生目線で小説を書いたりしているのが、何となく珍しく、意外な感じがして楽しい。 太宰中庸の小説「女生徒」にこんなくだりがある。 電車に座った主人公の女学生は、周りの冴えない大人をみながらこんなことを考える。 「私がいま、このうちの誰かひとりに、にっこり笑って見せると、たったそれだけで私は、ずるずる引きずられて、その人と結婚しなければならない破目におちるかもしれないのだ。女は、自分の運命を決するのに、微笑み一つで沢山なのだ」 この小説が書かれた昭和十四年は日本が中国との泥沼の戦争を続けながら、少しずつ軍国主義に入る闇の時代に入る頃である。 当時の女性の立場がこの文章でもよくわかる。 女学生は自分が女性であることを楽しみながら、生きにくい世の中をさりげなく嘆く。 奔放な女の子の心理が読み取れて、本当に太宰の作品なのかしらんと思ってしまう。 また、よく言われることだが、描かれる主人公の姿に、特異なナルシズムを感じるのも太宰の作品の特徴である。 「ヴィヨンの妻」は、店に来る客に犯された後、夫が新聞に書かれた自らの批評、人非人という言葉を否定した事に対して、「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」と答える。 彼女は夫との生活に幸せを感じ、それがどんな生活であったとしても、ただ夫といることに幸せを見出そうとする。 その献身さと、破滅的な夫の姿には、いつも通りの太宰のナルシズムを感じる。 太宰の作品中の女性は、儚くそして愚かである。 「人間失格」では妻のヨシ子が間男に犯される。 しかし、そのことを憎まず、そのことを止めようともせず、ただ成り行きを見て、自分に伝えるだけしかしなかった友人に対して怒りを感じる。 主人公はヨシ子の無垢さ故に汚され、そしてそのことを自分に知られたヨシ子の、自分に対する態度の豹変ぶりに苦悩する。 太宰の作品には端々に人間への憎悪とも感じ取られるメッセージがある。 女性は社会に傷つけられ、男性は常に苦しみの中にいる。 女には幸福もなく、不幸もなく、男には、不幸だけがあり、いつも恐怖と、戦ってばかりいるのである。 その人の営みに破れ傷ついていく姿に、特有のナルシズムが見え隠れしているのだ。 「人間失格」を読んだ高校生の頃、おぞましい気分になった。 人の世に対してではない。 自分の中にも人の世への嫌悪が確かにあり、自分も「人間失格」である部分を持っていると感じたからである。 今、人生を折り返す年齢の僕は、学生時代よりは、少し人の世に信頼を持っている。
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