伊井直行 草のかんむり

知らなくていい現実を排除して、変わるための前向きな姿勢が描かれている

(2012年01月更新)

  • 販売員をしている青年グレーゴル・ザムザは、ある朝自室のベッドで目覚めると、自分が巨大な毒虫になってしまっていることに気が付く。 カフカの「変身」の始まりである。 ザムザはその後、家族にも見捨てられ、まあまあ非業の死を遂げることになるのだが、この物語の凄まじいのは、得体のしれない生き物になってしまった主人公が、淡々とその生を全うとするところだろう。 朝起きて自分が本仮屋ユイカならば、まずは風呂場に行くだろうが、何だかよくわからない不快な虫になってしまったら、自分ならばパニックになって頭がおかしくなるかもしれない。 少なくとも家にじっとはしていないだろうと思う。 正直そんなファンキーな現実は受け入れられないので、なってみないとどうするかはわからないが、ただひとつだけ言えるのは、虫を食べるくらいなら死んだほうがマシということくらいだろう。 実際の話として考えると、現実的な事を色々思い浮かべて不快感が増すので、ザムザの話は止めにするが、自分が何者かに変わりたいという気持ちは皆が持っているのではないだろうか。 この前娘と息子を連れて京都の太秦に行ってきたのだが、中に入るとすぐに銀魂のコスプレイヤーが居て、面食らってしまった。 昔子どもの頃に来た太秦は、東映の人と思われる江戸時代の侍の衣装なんかを着た人が、淀んだ目であっちにうろうろこっちにうろうろしているような印象だったが、最近は明らかに素人のおかげもあってか、派手さを増しているようだ。 よく見ると他にも何組かのコスプレイヤーが居て、その中には外人も何組かいて、ああ、これはもう一つの趣味として十分に認知されているんだなあと感じた。 少し女性っぽい趣味だなあとは思ったりはしたのだが、いずれにしても楽しそうなのは羨ましい。 趣味なので変わりたいという願望でコスプレをしているわけではなかろうが、どこかで今の日常を打ち消したい自分がいて、自分ではない何者かになろうとしているのではないだろうかと勘ぐってしまう。 僕の学生時代にも、やはりこういうモノは合って、例えばビーバップが流行った中学生時代は、周りはみんなヤンキーだらけだったし、バンドブームの時は、化粧をする男や、髪をスプレーでカチカチに固めていた奴が結構いた。 変装は手っ取り早い自分の変身願望を満たす手段であり、大抵はなりたいものへの憧れや、自らのナルシズムに依るものが大きいような気がする。 しかし、結局のところは自分は自分でしかないので、いつか異なる自分になるために現実的には前向きな努力をし、一歩づつ変わっていくものなので、急激な変化に際したとき人は、案外ザムザのように受け入れてしまうのかもしれない。 カフカの物語にある虫への変態は、言わば人間社会の脱落を意味し、ザムザは更生の機会を得ることなく、最小の社会である家庭からも疎まれてしまう。 ザムザの恐怖は、人間からの脱落を突然宣告され、元の生活に戻れるない状況の中で、人間の尊厳や、誇りなどが通用しない所に放り込まれてしまうところに集約されている気がする。 例えそれが自分の姿が毒虫に変身していなくとも、同じであろう。 伊井直行さんの「草のかんむり」という小説は、同じくアマガエルにされてしまった予備校生の僕が、必死の努力で人間に戻ろうとする物語である。 先に書いたカフカの「変身」と明らかな相違点があるのは、予備校生の僕は、人に戻るために必死になっていること。 その努力の結果、主人公は浪人をしているダメな僕から成長を遂げていく。 「変身」を遂げることにより、悪い部分の自分を見直し、新しい自分になるためのきっかけを作った、という意味では、カエルへの変身経験が、よりよき自分への変身へと昇華されている。 何か青春の様なものを扱った小説は、どこか気恥しさのようなものがつきまとい、ああ、もっと若いうちに読んでおけばよかった、と思うことがよくあるのだが、この小説にも同じものを感じられる。 カフカは、物語の中でよりリアルさや、現実を象徴する描写を行なったが、「草のかんむり」は、現実を排除して、空想の中で変わるための前向きな姿勢を描いている。 そういった意味で「草のかんむり」はアプローチは「変身」と似通っているが、全く違う題材を扱った物語として認識しても良いとは思う。 若い時に読んだらよかったなあ、と思う、何だか爽やかな小説である。
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