村上春樹 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド

この世界よ。さようなら

(2012年01月更新)

  • 僕はメールがあまり得意ではない。 それはメールを打つのが苦手とか、友達がいないとかそういう理由ではなく、メールを打つ自分は、本当の自分と違う別人格の自分が打っている気がするからである。 谷川俊太郎さんの「アリス」ではないが、「もしもわたしがわたしならわたしはわたしじゃありません」的な感じである。 勿論「今どこどこにいるよ」みたいな短文を打つのは何も苦労はないのだが、「今日元気なかったけど大丈夫」のような、本来話し言葉でかけるようなものに対して、メール文章として言葉をかけるのが、本当に難しいと思うのである。 要は「元気出して」と伝えるのも、相手の感じがわからないので「くよくよしてるのはお前らしくないよ」が良いのか「大したことじゃねえのに落ち込むな」が正解なのか、励ましの言葉がわからないのである。 現代はメールに限らず、多次元的な世界に自分を置いて生活をしている人が大半だと言える。 コミュニケーションツールの発達と、情報社会が加速度的に進歩しているからではあるが、僕のような、パソコンは触るが頭がアナログのタイプは、どうしても顔を合わせないコミュニケーションに拒絶感を示してしまう。 そもそも頭の中で構築された世界が、現実のように振舞うということに、しっくりこないからかもしれない。 僕は仕事でシステム構築のためのプログラミングをするので、情報化社会の促進は、社会にとって大まかプラスであると考えてはいるのだが、思考までプログラムに支配されることに恐怖を感じることがある。 例えばコンピュータの処理は究極を言うと2元選択なので、「いま辛い?」に対して「はい」「いいえ」の演算処理を脳で行い、「いいえ」ならば「ではこの世界よ。さようなら。」と言う処理が頭の中でされると思うと少しゾッとする。 本当ならば、選択肢はいくつもあり、それは状況や気分なんかで変わるのだが、メールというコミュニケーションツールは、その文章だけで相手の気持ちを判断するので、相手の感情までおもんばかることはできない。 とはいえメールのような往復書簡は昔からも存在し、古くは平安時代の和歌に遡る。 しかしメールとの大きな違いは、和歌には規則があって、当然上手い下手があるので、使う人の教養に合わせ、その内容を読み解くことができ、受け手側も知識を持っているので、表現自体に定型のものがあって、そこに心を宿すことが可能だった。 メールは知識も必要無く、ただ相手が伝えたいことをそのまま伝えるという、言葉が交差しているだけなので、本来言葉にはある心みたいなものを宿すのが、僕には大変難しいのである。 村上春樹さんの「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は、「世界の終わり」の僕と「ハードボイルド・ワンダーランド」の私の二つの話が同時に進行し、少しづつ重なっていく物語である。 この物語を読んだ学生の時に不意にそんな二元論的な無機質な世界を感じて何だか寂寥感を感じたのを覚えている。 「ハードボイルド・ワンダーランド」での私は、「計算士」という仕事をしており、特殊な手術により、自分の脳そのものを計算プロセスに使うという、今で言うところのコンピュータのシステム管理者と言うところだろうか。 そして主人公の私は突然に意識が失われ、「意識の核」へ転移してしまうことを宣言される。 「世界の終わり」は、人々が心も記憶も失って、原始的な自給自足の生活を贈る世界で、主人公の「僕」は「夢読み」なる仕事をしている。 「夢読み」は、読んで字のごとく失われた夢を読む仕事だが、夢を読むことで何かを得られるわけでもない。 「世界の終わり」では、心を取り戻すことと、この閉ざされた世界からの脱出に焦点が当てられているのだが、結局「僕」は、この世界を作るものを知りこの世界に留まることを決断をする。 この物語の解釈や説明は、読む人に任せるとして、この話の中の主人公の「僕」と「私」は同一の人物で、互いの世界はいくつかのキーワードでつながっていて、大部分では現実世界(まあ、どちらの話も現実にはない世界ではありますが)と異なっている。 意識の世界は、存在しているはずのものもがあらかた欠落した世界で、主人公の「私」は今の実社会の意識を失い、頭の中の「世界の終わり」の「僕」になってしまう。 そして意識の世界は、不自由で薄暗い景色が広がり、何となく不安な気持ちにさせる。 この物語がコンピューター時代を予見させたものかどうかは分からない。 また、二重思考の末路なのかも分からない。 ただ人の思念のたどり着く先が、心を失った「世界の終わり」であるのであれば、僕は心のある社会の中に身を置いておきたい。 この小説にはよくボブ・デュランが出てくるのだが、女の子がボブの声を「小さな子が窓に立って雨降りを見ている」と表現しているが、僕はボブ・デュランの歌声を「トタンに当たる雨音」そのものだと思う。 周りの形に合わせて激しくもなり、優しくもなる。 いずれにしても歌声を雨に例えると言うのはいかにも村上春樹さんらしい素敵な小説だと思った。
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