天才スピヴェット

監督 ジャン=ピエール・ジュネ
出演 カイル・キャトレット ヘレナ・ボナム=カーター
制作 2013年フランス=カナダ

凡人がひいたレールに自分の思想を乗せないこと

(2015年06月15日更新)

  • 世の中には稀有な才能を持って生まれてくる子がいる。 また、とんびが鷹を生むではないが、世の親の多くは子どもに対し、我が子の特別な才能を少しは期待するものである。 昔、4人の子ども全てがIQ160以上という、米国在住の日系女性がインタビューで、「子どもがおなかにいる時から話をしてやった」ことが天才児を生んだ要因になったと、何かの記事で読んだことがある。 よく言われることだが、胎教は優秀な子どもを生むための重要な行為だそうで、かのソニーの創業者、井深大さんも同様のことを著書で述べている。 ただ話しかけるだけの胎教の優れた点は、お金がかからず、誰でもがトライできるところで、普段聞きもしないクラシックを聞かせたりするよりも遥かに効率が良い。 何せ話しかければよいだけだから、ちょっと手の空いた時にやればいいだけである。 とは言え天才児が生まれたとしてもそれはそれで考えてしまう。 実際に自分の子どもが多分天才では無いと思うので、完全に想像で書くのだが、天才児の親はそれなりに苦労するのではないのかなあとは思う。 優れた子どもの好奇心に答える自信はないし、何より自分より優秀な子にどんなことを教えてやればよいのだろうかと思うと、何だか難しそうだなあと身構えてしまう。 想像の話をしていてもしょうがないので、過去の例として、歴史上の天才を調べてみる。 少年時代からの天才といえば、まずモーツアルトを思い浮かべる。 5歳で作曲をしたという彼は、12歳でオペラの作曲も行っている。 まごうことなく天才なのだが、モーツアルトが14歳の時、アカデミア・フィラルモニカとかいう会員資格を得るための試験をイタリアで受けるが、完全に失敗している。 またその後の彼の破天荒な人生を思うと、天才といえど挫折はあるようだ。 一方で天才の名をほしいままにしていたアインシュタインの幼少期は話もままならず、親が脳に障害があるのではないかと疑ったほどである。 17歳の時には、難関チューリッヒ連邦工科大学(ETH)に果敢に挑むが、入試科目の数学と科学は合格点に達したが、残りの歴史、言語、地理などは全滅したそうで、1年間の浪人生活をしている。 誤解が無いように付け加えると、数学や科学の成績は飛びぬけており、単純に興味の無い勉強はしなかったようである。 アインシュタインの場合は、社会の枠にはまりきれなかったという意味において、決して無能ではなかったとはっきり言っておきたいのだが、とは言え、幼少期がぱっとしなくても後に天才になるケースということは往々にしてあるようだ。 こうやって世の天才を例に見ても、挫折もすれば全てが完璧ではないので、親が構える必要はなさそうである。 少年時代の彼らは必ずしも天才ではなく、秀でている人であり、どこかに子どもらしい面がやっぱりあって、親としてはただやさしく成長を見守ることが必要なのだろう。 そういう意味では、天才もそこらの子どもと大差が無いのかもしれない。 話を戻して、今度は天才の定義とは何か?を考える時、多くの人は「才能を持っていること」と答えると思う。 才能とは何ぞや?と続くと話がややこしいので割愛するが、結論を書くと才能は確かに天才の要素の一つであって、天才を定義すると、才能ある個性を持っている人では無いか?と思うわけである。 つまり人と違う。人と違うから人ができないことができる。 例えば、現代の天才であるアップル創業者のスティーブ・ジョブズの逸話の中で、アイ・フォン開発で、試作機をより軽くする計画を遂行させるため、エンジニアの前で試作機を水の中に入れた逸話がある。 水に入れて空気の泡が出るのを見て、「まだ空気の隙間があるじゃないか」と言ったというが、この逸話にこそ彼のストイックさが現れている。 人に厳しく、ビジネスに厳しい。 これがジョブズの持っていた、人と異なる才能だったのかもしれない。 「恋愛論」や「パルムの僧院」などの小説で知られるフランスの小説家であるスタンダールは、天才の定義として、「凡人がひいたレールに自分の思想を乗せないこと」と言っている。 要は常識にとらわれず、自由な発想で望むことが大切であるということらしい。 しかし全員が異なる考えというのも、協調性が無くて会議なんかだと大変だが、同時にその思想が、独創性に富み、ある視点では大変優れている必要があるとは思う。 よく言われる話だが、ディベートの際には物事の反証を考えることが必要だという。 つまりある事象に対し、否定的な意見も理解したうえで望むことが大切だということだが、ただトリッキーな考えだけではなく、そのトリッキーな考えに辿り着く上での、平凡な考えに対する理解も必要だということである。 そんなこんなで天才について考えてみたが、天才とは面倒くさくて、あまり友達にはしたくないなあと思ってしまう。 何せ人と違うことばかり言って、常識もあんまり通用しないのだから、付き合うのは大変ストレスがありそうである。 その人の才能に惚れ込むとか、肝要な心を持つようにならないと、なかなかしんどそうな話である。 そんなことを考えていくと、自分の子どもは普通でいいかな?何てことを思ったりするわけである。 長いわりに、しょうもない結論で終わった今回の前置きだが、今回の映画は、天才が冠につく「天才スピヴェット」を紹介する。 「アメリ」のほのぼのとした世界観を作ったジェネ監督が、天才を題材に家族の愛を描く。 映画の中の少年は孤独であり、努力を惜しまない子であり、そして人と違っていた。 孤独な環境が彼の天才を生んだのかもしれないが、彼はその孤独故に、居場所を求めて旅に出る。 しかし少年の居場所は薄汚れた都会には無く、彼の傷ついた心は家族の愛で癒され、やがて旅は終わる。 天才と名がついた物語だが、感受性豊かな10歳の少年のやさしい話である。 家族にとって少年の才は関係は無く、傷つけばやさしく抱きしめ、話を聞いて間違いを正してあげる。 愛情の前では、才能の有無は関係の無いものである。
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