セックスと嘘とビデオテープ

監督 スティーヴン・ソダーバーグ
出演 ジェームズ・スペイダー アンディ・マクドウェル
制作 1989年アメリカ

セックスは過大評価されていると思うわ。女がそれを求めているなんて大ウソよ

(2015年01月12日更新)

  • 大阪のお初天神通りというところがあって、商店街がそれこそ四方に広がっているのだが、そんな商店街の中でも人があまりこなさそうな路地裏にひっそりとあったのが、大人のおもちゃやさんである。 学生時代にはその怪しさからか、中に何が売っているのか興味はあったがなかなか入ることができず、横を通るたびにちらりと店内を一瞥するくらいしかできなかった。 流石に今ではそこまで躊躇はしないが、その中で売っているものがなんなのかを知っているので、そこまで興味を持つことができない。 最近驚いたのは、そう言った大人のおもちゃが市民権でも得たのか、たまに普通の商業施設内に紛れて売っているのを見かける。 性というものが最近では恥ずかしいものではなくなったのか、男性の自慰商品なんかを大型ディスカウントショップで見つけた時は、流石に少し引いてしまった。 そんな羞恥心のハードルが下がったことへの影響なのか、あこがれの職業で、キャバ嬢が上位に入ってきているということに驚いたのだが、最近ではAV女優という仕事にも憧れを抱いて入ってくる女の子もいるという。 価格も1本3万円くらいで出演している子もいるらしく、女性の貞操観念はどこへ行ったのだと嘆く一方で、世代間でそもそも恥ずかしいということへの定義が変わってきているのではないか?という疑問がわいてくる。 例えば僕なんかは見せるためのパンツというものが理解できない。 ミニスカートをはくために見せても良いパンツをはくということなのだが、僕の世代ではそもそもパンツ自体を見せてはいけない。 見せパンだろうが勝負パンツだろうが見せるものではないのである。 この発想は何なんだと思っていたら、どうも「かわいい」かどうかが、羞恥心の基準を左右するらしいことがわかった。 可愛ければパンツが見えてもOKだし、可愛ければ胸を揉まれて喘いでいても良いわけである。 なんだかわかったようでわからない基準だが、年を取ると分からなくなるのが文化というものなので、まあそういうものかもしれないくらいに理解している。 じゃあ我々の時代の性の価値観は何なのかという事で、今回は若き日のソダーバーグが手がけた「セックスと嘘とビデオテープ」を紹介する。 映画は「セックス」という本来人が隠すべき本能をテーマにしている。 そして「嘘」という人間が社会生活において切り離せない行為。 最後に当時の最新のメディアであり、その時代を切り取るコンテンツ「ビデオテープ」。 映画は正しくタイトル通り、この3つの物語である。 物語はこの3つのアイテムで進められる。 主人公のジェームズ・スペイダーは「嘘」によって苦しめられ、自らの性のはけ口に「ビデオテープ」を使う。 アンディ・マクドウェル扮する貞淑な妻は、「セックス」への嫌悪感を示しながら、夫の「嘘」を疑う。 ジェームズ・スペイダーが持つ「ビデオテープ」は、女性のセックスの経験や考え方を記録したもので、この「ビデオテープ」を介し、本当の自分というものを顕わにする。 劇中に女性が言う。 「セックスは過大評価されていると思うわ。女がそれを求めているなんて大ウソよ。」 しかし、人間はその行為なしでは生きられず、その行為自体が人間の一部であることを知っている。 そのよじれがあるからこそ関係がうまく成り立つのだが、そのことを正直に外に出していくことで、関係が壊れてしまうこともある。 嘘をつかないことが逆に人を傷つけてしまうこともある。 僕は、最近の性に関する傾向を見るときに、隠すものがないのではないか?と思うことがある。 つまりセックスもネットで調べればすぐにどんな行為かを知ることができる。 同様に嘘も調べればすぐにわかるし、ごくプライベートな嘘でも、ネットの力で調べられたりする。 人の行動や行為に隠すものがなくなってしまい、そのことで逆に羞恥心のようなものがなくなってしまったのではないか、と思うわけである。 昔なんかはセックスの仕方も分からずに大人になってしまったことで、いざその行為になってから何をどうしていいのか分からず、もぞもぞしているうちに射精してしまった、というようなことがあったようだが、そう言った負の部分が全て見えてしまうことで、恥ずかしさも失われてしまったのかもしれない。 文明が人の意識さえも変えてしまうその怖さのようなものを感じる。
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