サイドエフェクト

監督 スティーヴン・ソダーバーグ
出演 ジュード・ロウ  ルーニー・マーラ
制作 2013年アメリカ

言葉の副作用とは、言葉を定義したことで生まれる、様々な感情が生まれる事なのかもしれない

(2014年04月22日更新)

  • 精神医療という言葉をよく耳にする。 もちろん随分前からその言葉は知っていたのだが、最近特によく耳にするようになったのは、僕の職場で二人ほどその精神的な治療のため、会社を退社または休職する羽目になったからである。 ゆとり教育のたまものなのか、周りに優しく育てられたせいなのか、打たれ強い人が少なくなったのは実感としてあったが、実際にこういう精神的にまいってしまった人を見てしまうと、本当に精神疾患は病気として顕在化するんだ、と変な関心をしてしまう。 テレビによると、鬱なんかは、5人に1人くらいが抱えている病気だそうで、現代はそこいらで沈んだり上がったりしている人が多い社会のようだ。 大学時代の先輩に躁鬱っぽい人がいて、躁の時はバイトも行くし大学にも顔を出すが、鬱になると家に籠ってしまう。 そんな性分なので、当然に大学は何回も進級できず、僕が卒業してもまだ大学にいらっしゃったのだが、その後ちゃんと卒業したのかどうかは知らない。 思い返せばこういった人は結構社会にいるもので、過去にバイトで知り合った程度の人とかを入れると、数十人レベルでこういった症状を持っていたように思う。 若いうちは鬱の正体も知らずよくわからなかったのだが、年をとって自分がいくつかの困難を超えてくると、なまけものだなあ何て考えが浮かんできてしまい、病気であるという認識がなかなか持てない。 それは、僕自身がそういった人を軽く見ているわけでも、自身が社会人的にきちんとしているというおごりから出てくる感情でも無い。 自分の思いに対して受け入れられないもどかしさや、生きにくさを抱えた人が、そのジレンマをどこかにぶつけようとした結果、感情の起伏が生まれてくるのは当然な感じがするので、誰しもがそういう要素があるのではないか?と思ってしまうからである。 そもそも型どおりに生きられる人間ばっかりだったら気持ちが悪い気がするので、社会の軋轢に精神を病むことはむしろ普通の気がしないでもないと思うわけである。 むしろ、昔の方が不安定な人は多かったような気がするし、現代になってそれを病気として位置づけて、人はこうあるべきという型にはめて行こうとする意図が見えてくるし、同時に、医学会的な権威が、患者を量産するために企んだことじゃないか、何て勘ぐりをしてしまいそうになる。 要は感情の起伏のある人に対し、病名を当てはめて、何となく病気に仕立て上げているのではないか、と思ってしまう。 僕はこのエッセイで何度も書いているが、比較的都会に生まれて、一般的に言う変な人を、多分普通に田舎とかで育った人よりたくさん見ている。 だからこうやって書いているわけではないのだが、人は人と違うから人なのであって、感情の起伏があって当然で、その当たり前のことが病気だというのであれば、あらゆる人類は病気ではないかと思う。 とは言え、僕は鬱を病気として認めないと言っているわけではない。 鬱が病気であるという認識から、結果的に多くの人を悩ましている一方で、病気であるという事を定義づけられたことで救われているケースもあろうかと思う。 今もそういった精神的な症状で悩んでいる人がいるのならば、自分自身がしんどくても、それは病による一時的なもので、解決できる事案であるという意識が生まれるので、決して、落ち込んだり、失敗したと思わない方が良いだろう。 要は、鬱という病気を盾に自身の弱さを見つめようとしない傾向がある人に対し、僕は疑問を持っているのである。 毎度前置きが長いが、今回の映画は「サイドエフェクト」というサスペンス映画である。 因みにタイトルの直訳は「副作用」だそうで、薬の副作用で殺人を犯してしまった女性を中心に、物語は紡がれている。 主人公は薬を処方した精神科医で、ジュード・ロウがいやらしさ爆発で演じている。 映画の中の精神科医がイギリスからアメリカに来た理由を言うシーンがある。 「イギリスでは精神科医にかかるということは、恥ずかしいことなのだが、アメリカではそれはごく普通のことである」 劇中の精神科医は、そのためにイギリスから仕事を求めて渡米してきたのだが、そこで殺人事件に巻き込まれてしまう。 焦点は殺人を犯した女性に責任能力があるかで、彼女は精神疾患を持っていて、夢遊病の前歴があった。 精神科医は、彼女へ処方した薬によるサイド・エフェクトが原因で殺人を犯したかどうかを診断する。 この手の心理状態を描く映画を見ると、いつも言葉によって物事を定義することの危うさを感じるのである。 言葉は、その言葉が出来た瞬間から力を持ち、その言葉ができたことで、人間はいろんなことを実現させてしまう。 ある心の動きに言葉を与えた結果、言葉はその言葉の役目を果たそうとする。 結果、多くの事例を産み出し、その言葉はやがて強固なものになる。 それは時として宗教の中で強い意味を持ち、宗教は言葉の力で人を救う側面があり、人を苦しめる面も持っている。 例えばキリスト教の国では、エクソシストなるものがいて、悪魔を払う活動をしているそうだが、悪魔の存在自体、その定義を言葉として与えることで、敬虔な信者の罪悪感みたいなものとつながり、自分の中にありもしない具体的な悪魔を生み出してしまう。 精神疾患も似たようなもので、人は鬱という病気を知っているから、少し心が弱くなった時に、その知識に合わせた精神をこしらえてしまう。 言霊のようなものだろうか。 言葉は発した瞬間から、イメージを作り、そのイメージと一緒に大きくなっていく。 精神科医はその定義を、なるべく医学的に取り除く仕事であり、患者は決して特別な人ではなく、元はただの聞き分けの良い人なのではないかと思うわけである。 映画「サイドエフェクト」の主人公の女性は、精神疾患の一般的なイメージを逆手にとって、完全犯罪を目論む。 しかし、僕はこの劇中の女性が「夢遊病によって愛する人を殺してしまう」ことが、「催眠術にかけて人に殺人を起こさせる」事件と同じくらい荒唐無稽な気がしてしまう。 人の精神や理性はそんなに弱いものではないだろうし、何より人を殺すという行為には、人間としての尊厳や、倫理のようなものを越えて起こさなければ行けない行為で、どういう状況であれ、そういった行動をとってしまう環境やその人の生い立ちにこそ、本当の問題が潜んでいる気がするからである。 言葉の副作用とは、言葉を定義したことで生まれる、様々な感情が生まれる事なのかもしれない。
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