それでも夜は明ける

監督 スティーブ・マックイーン
出演 キウェテル・イジョフォー マイケル・ファスベンダー
制作 2013年アメリカ イギリス

ただ威張るだけのおっさんは、これからのこの世の中には必要がない

(2014年11月30日更新)

  • 先日ノーべル平和賞を受賞されたマララ・ユスフザイさん住むパキスタンという国は、国民の識字率が半分以下だそうだ。 小学生の就学率も後ろから数えたほうが早いくらい低く、就学していても、経済的な理由から毎日就学することができない子どもも決して少なくない。 この国は宗教的な理由で、女性が学校に通うことに反対する人も多く、なかなか難儀な国なのだが、日本にいると、この就学できないことに違和感を感じてしまう。 実はここ数年のイスラム社会では、原理主義と呼ばれる、イスラムの教義を厳密に守っていこうという考えが強くなってきており、特に女性蔑視の傾向が強くなりつつある。 女性蔑視というと、反射的にインドを思い出してしまうのだが、昔インドのカーストに関する記事を読んだことがあって、衝撃的なことだが、カーストの最下層にあたるダリットの女性は、成人になるまで処女の女性はほとんどいないそうだ。 本当にひどい話で、ダリッドの女性は、よりカーストの上の身分の男性にレイプされてしまうからだそうで、それを取り締まる法も適用されないことが多いそうだ。 皮肉な話なのだが、イラクのサダム・フセインは、女性の社会進出に寛容で、女性が就学することを奨励していた、イスラムでは数少ない進歩的考えの持ち主だったそうで、フセインが処刑されてからは、イスラム特有の女性差別が徐々に横行し始めているという。 本当に人間同士が平和に暮らすことは難しい。 インドやイスラムの差別の根底は宗教である。 宗教は言わばその民族の文化に根ざしているので、誤解を恐れずに書くと、差別の上に文化が成り立っているのである。 しかし、イスラムの経典に女性が男性より劣るというような項目は無い。 イスラムの差別は女性が男性をたぶらかす存在であるという、一部の男性の考えがあって、おそらくそれは戒律の厳しさが基本にあって、戒律を守る上で、女性の存在はどうしても男性を堕落させてしまう存在に写ってしまい、その身勝手な男性の狭い考えで女性を蔑視しているのではないか、と思うわけである。 インドの場合は、輪廻の考えが根本にあって、現世での行いは来世に引き継がれる考えから、現世の扱いが良くないのは前世で良くないことをしていたからだ、というかなり理不尽な思想に基づいているようだ。 とは言え、女性に就学させないことやレイプは問題外で、多分こういった国に必要なのは、仕事と倫理感ではないかと思うのである。 では我が国はどうか? 過去江戸時代の部落にも穢多・非民なんてものがあって、特に非民はインドのダリット(不可触賎民)とも通じる呼称で、えげつない感じがする。 ただ、そう言った人々を無差別に殺したりということは多分なく、そもそもそう言った部落に普通の人々が入ることがなかったので、そこまでえげつないことはなかったのかもしれないが、島崎藤村の「破戒」にもあるように、結構近年までは部落差別は強く残っていたようである。 僕はこのエッセイでも差別のことをよく書いている。 僕の生まれた大阪では、差別は子どもの頃から近くに存在し、特に朝鮮人に対する揶揄する気持ちは、間違いなく周りにあったと思う。 差別が怖いなあと思うのは、なぜ差別されているのかがわからないことにある。 とりあえず皆が馬鹿にするから自分も馬鹿にする。 この感覚が一番恐ろしい。 しかもそれが社会通念の中で認められたりしていれば、それこそ差別される当人は地獄だろうなあと思う。 少なくとも、生まれで貴賎はなく、全ては生まれてからその人間がどう生きるかなので、前世もなければ性差もそこには存在しないはずなのに、生まれた瞬間から侮蔑されるのはやはりどこか間違えている。 予想はしていたが、書きながらやっぱり熱くなってしまった。 僕は昔から、特別な才能のある人に弱くて、そう言う人がたくさんいる社会があれば、もっといろんな世界を見せてくれる気がして、逆にそういった機会を奪う行為に得も言われない怒りを感じてしまう。 ただ肌が白いからとか、金があるからとか、そんなくだらない理由で、才能を押しつぶしてしまうことに、僕のような才能のない人間はやるせなさを感じてしまうのである。 差別を考える時に、いつもそんなリベラルなことを考えてしまう。 「それでも夜は明ける」はアメリカの黒人差別の映画で、多分南北戦争前の話なのだろう、北部の自由黒人が誘拐されて、南部に売られ、奴隷として使役されるという、なんじゃそれな話だった。 この映画にはそこかしこに教訓がある。 例えば、主人公はバイオリンをやるのだが、南部にいる生まれながらの奴隷黒人がバイオリンを弾くことができるわけがないのであって、当然に彼が北部の自由黒人であることを、どこかで買い手はうすうす気づいていることになる。 また南部の白人が黒人に対し、南部では金を出せば黒人は自分の所有物になることを主張する。 このシーンもまた、彼らは場所で差別が横行している状況を把握していることを示している。 実はアメリカの黒人差別というものは先に述べた、イスラムやヒンドゥーのような、宗教的な理由からねじ曲がった解釈で差別をしているのではない。 ただ支配と被支配の理論だけで差別ができているのである。 そこには法もあれば秩序もある。 言い換えれば差別システムなるものがあって、そこに商取引があって、立派な経済活動として奴隷が存在しているのである。 つまり思想的領分ではないので、批判もなければ、ただ買われた相手の良心に期待するしか道が無い。 これはかなり絶望的な話である。 僕は最近、日本の社会における差別の構図とはなんだろうか?を考えることがある。 それは僕自身が会社にいても、部下や社員に執拗なまでのルールを行おうとする人々や、妙な上下関係を押し付けようとする人を見ることがあるからである。 またニュースでも体育会系の上下関係を苦に、自殺をする若者が出たりしている。 確かに礼儀や躾は大事だとは思う。 でもそれはあくまで人間関係の中にある道徳のようなもので、例えば挨拶をするとか目上は大事にするとかで、上司や先輩に対し、指示以外の生活面なんかを強要されるのは、なんだか旧時代的な差別に感じてしまう。 たいていの差別の心は、そう言った支配する側の理屈が横行する際に、行き過ぎた考えや、それを否定する手段がない時や、抑圧で口が出せない時に生まれる。 その結果として、冷静に考えれば「あれ?何かおかしくない?」と思うことでさえ、支配側からはその居心地の良さや、自分自身の安寧のために口をつぐんでしまう。 こうなるとその組織はいつか崩壊の一途を辿ることになる。 その理由はシンプルで、牽引役がその程度の人間であれば、付いてくる人間もその程度だからである。 基本は全ての人間の可能性を尊重し、それを伸ばしてあげるという視点が大切で、決して従わないものを排除するとか、簡単に切り捨てるということではないように思う。 ただ威張るだけのおっさんおばはんは、これからの世の中には必要がない。
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