ヘルプ ~心がつなぐストーリー~

監督 テイト・テイラー
出演 エマ・ストーン ヴィオラ・デイヴィス
制作 2011年アメリカ

個人の一人一人は利口そうで、分別ありげだが、集団になるとバカが露見するものなのかもしれない

(2012年10月04日更新)

  • 慶應義塾大学の紋章にも描かれているペンマークは「ペンは剣よりも強し」の故事からきているそうだ。 さすが「時事新報」を創刊し、不偏不党の精神で、偏らず、また自由な言論を推進した福沢翁のお言葉としては、含蓄があると妙な納得をしてしまう。 この「ペンは剣よりも強し」のそもそもの原典は、19世紀のイギリス人、ブルワー・リットンによる戯曲『リシュリュー』といわれているそうだ。 リシュリューとは17世紀のフランスの権力者で、本来の言葉の意味は、「剣を使わずとも政治的な力で人を殺すことなどたやすい」という意味らしく、権力の中枢にあった人間が、天狗的な意見として述べたもののように聞こえる。 要は、俺がサインするだけで、お前を断頭台に連れて行ってやれるぞ、ということではないだろうか。(詳しくは知りません) それが時代の変遷の中で、良い様に解釈され、モノを言う権利を主張する、良い広告文句となったようだ。 薀蓄はさておき、「ペン」の力で多くの人々を動かすことはできるのは事実のようで、最近チュニジアを中心に中近東で起きたクーデター「ジャスミン革命」も、引き金はインターネットだった。 最初は小さなうねりだった民主化へのデモが、いつしか政権をひっくり返すほどの大規模クーデターに変わっていく。 無論そこに至るまでに、市民の不満が爆発寸前だったこともあり、飽和した水蒸気がやがて雨になって落ちてくるように、不満の蓄積が最高潮になったために怒りとなってデモが起きたのであって、強烈な言葉が民衆を先導したというわけではない。 逆に言えば、現代社会の中で「ペンは~」を具現化して見ることはほぼないのではないか? 今の社会は、言論を行うものは何も特別な人ではない。 インターネット社会のような混沌とした世界の中に於いては、社会的問題や個人的な問題に対して、誰しもが同じように発言する権利があって、その中で作られた価値観が、やがて大きなうねりを作り出すことが多いような気がする。 しかし、大衆の意見は世論に左右されやすいのも事実で、僕が得意とする近代日本史の中でも、大衆の欲望が軍部の暴走を作り上げたと云う見方もできなくはない。 最も恐ろしく、また必ず考えなければいけないのは、今ある価値観が、過去や未来において本当に正当な考え方なのかを、歴史や人道的な側面から検証し、実行していくことで、それが狂っていると判断できる場合は、大抵歴史によっていつか裁かれる日が来るのである。 映画「ヘルプ ~心がつなぐストーリー~」に描かれるのは、黒人差別であり、裕福な白人の常識化した差別の実体を感じ取ることができる。 映画の中での差別の背景には、ムラ社会的な町の結束と、共通認識の共有がある。 そもそも差別の問題の殆どに、権力と区別が対座していることを知っておく必要があるだろう。 権力が差別を作り、区別が差別を恒常化する。 そしてその中で人間的な感情の支配欲や、征服欲なるものが顕現化した時に、個別の差別問題として浮き彫りになってくる。 この映画の差別問題は比較的ライト(怒られますかね?)に感じる。 それは差別問題が日常の生活に根深く存在しているからで、当時の白人社会の中で、差別に関して極端に鈍感になっているからだと思われる。 昨今の中国デモの様子(2012年9月下旬)を見ていると、中国がまさしくこの日本に対する区別を行っており、親日の踏み絵を踏めなかった人々に対して、差別を行う予兆を感じる。 しかし、これと同様の事を、過去日本が関東大震災の時に、朝鮮人が井戸に毒を放ったと言う、むちゃくちゃな論法で朝鮮人に暴行を加えた事実がある。 あまりに非人道的なこの行動は、日本の中の一部良識ある人に止められたりしたのだが、無法とも思える今回のこの強盗デモに関して、冷静になるように呼びかけた人はいたのだろうかと、逆に心配になってしまう。 いつかこの国の欺瞞に満ちた行動について歴史が裁く日を、心待ちにしたいと思うのは僕だけではなかろう。 最後に僕の子どもの頃の話をする。 大阪には比較的近くに差別が存在していて、韓国の方を差別する用語がある。 あまり活字にするのはふさわしくないので仮に「××」として話すと、友達の在日韓国人の女の子が、何かやるたびに「できるかなあ。私××やしなあ」とよく言っていた。 僕たちはこの言葉の意味を知っていたが、彼女は笑いにこの差別用語を使っていたのである。 「俺チビやからなあ」とかと同じ使い方をしていたわけである。 しかし、この笑いは、差別用語が自分のコンプレックスや弱点を指していることにあり、その負い目が笑いにつながっていることにある。 同時にその言葉自体の使い方をポップで、軽くすることで、言葉の重みに対してのギャップに笑いが発生する。 そんな使い方するか的な笑いである。 どちらに取ったとしても、この言葉自体を完全に嘲り、笑いとして昇華できるのは、唯一大阪人を褒めてもいいところではないかと思う。 個人の一人一人は利口そうで、分別ありげだが、集団になるとバカが露見するものなのかもしれない。
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