幸せの黄色いハンカチ

監督 山田洋次
出演 高倉健 倍賞千恵子
制作 1977年日本

追悼 高倉健さん

(2014年11月23日更新)

  • このエッセイでも度々出てくるのだが、俳優がその役柄に外見から近づけるため、ダイエットなどを行い肉体改造を行うことを、デ・ニーロ アプローチと言う。 言わずと知れた名優、ロバート・デ・ニーロが自身の主演映画「レイジング・ブル」の中で、ボクサーが落ちぶれて、肉体も衰えてだらしないカラダになるのを表現するため、劇中で激太りした姿で演技を行ったことに由来するのだが、近年、同じアプローチをよく見る。 俳優の矜持とも言うべきこの行為なのだが、僕自身は何となくあざとさを覚えて、鼻につくなあと思ったりする。 デ・ニーロは流石にパイオニアなので感動すらしたのだが、以降は「そこまでせんでも」とひねくれた考えで観てしまう。 アメリカはやることなすこと全てがエンターテイメントの世界なので、映画に望むその姿勢自体にも付加価値を付けているのだろう。 うがった見方かもしれないが、「レイジング・ブル」のように映画の中でどうしても痩せないといけない、または太らないといけないという事ならばわかるのだが、最初から太った役ならば、配役をそもそも太った人にすれば良いわけで、痩せて綺麗な女優が、太って見にくい人間の演技をすることにどんな意味があるのだろうか、と思ってしまう。 とは言え、肉体改造してまでその映画に向かっていく姿勢があるわけなので、演技は大変素晴らしいのだろう。 そう考えると意味はあるのかもしれない。 高倉健さんが亡くなられた。 2014年11月10日だそうだ。 僕は会社のミーティングの席で、高倉健さんのファンの上司から訃報を聞いた。 僕は高倉さんの熱心なファンというわけではなかったが、代表作はもれなく観ている。 映画館にオヤジに連れられて観に行った映画「南極物語」。 当時薬師丸ひろ子さんのファンだったのもあってテレビで観た、「野生の証明」。 教科書でしか知らなかった「八甲田山」は見応えがあった。 「居酒屋兆治」では、大人の愛が描かれ、「なにしろぶきっちょなもんですから」とつぶやく健さんの、イメージ通りの姿が見られる。 「あ・うん」や「鉄道屋」など、人気の高い脚本・原作にも負けない存在感を見せ、「ブラック・レイン」や「ミスター・ベースボール」など海外の作品にも出演し、国際的な活躍を見せた。 中国でも「君よ憤怒の河を渉れ」が大ヒットし、昨日の報道では中国共産党が、健さん追悼の公式声明として出しているという。 ちょっと書いただけで、本当にすごい俳優だったと思い知らされる。 高倉健さんの映画には、いつも特定の感情を描く。 それは、自然であることと、日本人らしいということ。 僕もやっと40歳を超えて、少しはものがわかるようになってきたと思うので、少しわかったフリして書くのだが、内に秘めたモノを抱えながら、それでも前に進む強さを、健さんはいつも映画で見せていた。 それは、時代の必然によって戦争に向かっていった日本人の魂に似て、心では平和や安寧を望みながら、太平洋や南の島に向かっていった多くの人々の心に通じ、また、戦争に負け、国が滅びかけた絶望の中で、一人ひとりが歯を食いしばって、曲がらずに生きてきた、その日本人の強さや、多くを語らない寡黙さを、健さんはいつも見せてくれたように思う。 僕は「幸せの黄色いハンカチ」という映画が好きだ。 単純に映画の中に優しさが感じられ、物語もわかりやすく飽きがない。 物語は今では陳腐かもしれないが、日本人特有の恋愛観も感じられる。 山田洋次監督という人は、何気ない一場面を、映画に切り貼りするのが上手い人だなあといつも思うのだが、この映画で高倉健さんは、刑務所を出所して間もない男を演じるのだが、立ち寄った定食屋のラーメンだったと思うが、とても美味しそうにがっつくシーンがある。 健さんはこのシーンを何日間か絶食して望んだそうだ。 それを知った時は、そんなに大事なシーン?と思ったのだが、確かに印象に残っていたので、少し感心したのを覚えている。 なぜ印象に残っていたかというと、僕はこの人がどうしてもヤクザや、罪を犯すような人には見えなかったからで、勝手に「冤罪だったのかな?」と思って観ていたので、純粋にこのシーンで「ああ、辛い思いをしたんだなあ」と感じていたからである。 俳優は大なり小なり物語に入り込み、その役柄に近しい人物になりきる。 物語とその俳優がマッチすれば、その映画は自然なものになるだろうし、物語がエンターテイメントとして良いものであれば、話題になり、ヒットするだろう。 逆に映画の中の俳優や、物語の展開に一定の安定感がなければ、映画を観ながら違和感を感じ、映画自体の評価を下げていく。 つまる所、不自然さがあれば、映画に集中できなくなる。 海外の俳優が行うデ・ニーロアプローチがやや鼻につくのは、見た目の変化ごときで話題にしようという魂胆が見え隠れして、本来重視されなければいけない、シーン一つ一つに対して役を演じきるという、本当の演技力というものが後ろに追いやられている気がするからかもしれない。 つまり努力の末に得た減量した姿よりも、たったワンシーンに対しても妥協せず、役の男と同じ状況に自分を追いやる姿に、役者としての矜持があると思うのである。
    そしてそれが役者という仕事の、ある意味一番大切な部分ではないのかなあと思ったりするわけである。 もちろんデ・ニーロも素晴らしいのは言うまでもないですが。 当たり前だが映画の中で、俳優の存在は大きい。 もちろん映画の全てに俳優の影響があるわけではないが、俳優の演技に少しの違和感があると、その違和感の理由を考えてしまい、思いを映画の外に巡らしてしまう。 それが何がしかの矛盾だと感じると、その映画の評価を一方的に下げてしまう。 そういう意味で映画は糸を紡いでいく行為に似ている。 一つ一つ丁寧に針を入れることで、美しい着物が出来上がるように、映画も一つ一つのシーンを丁寧に縫い上げていく。 健さんの映画に違和感がなく、自然さがあるのは、多分誰も反論はないと思うが、健さん自身が稀有な役者であり、才能あふれる俳優だったからだろう。 その才能に裏打ちされるものは、健さん自身が日本人の美徳の多くを常に持ち続けていたからではないかと思うのである。 健さんが演じていたのは、ひょっとしたら本来あるべき理想的な日本人だったのかもしれないなあ、と勝手に思うわけである。 これからもう少し大人になって、僕も少しは日本人らしくなるかもしれない。 多くの人が愛した高倉健さんの魅力に近づくため、寡黙で、芯の強い不器用な男になることで、もっといい男になれるかもしれない。 ご冥福をお祈りいたします。
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