少年H

監督 降旗康男
出演 水谷豊 伊藤蘭
制作 2012年日本

生きにくさを解消するために大切なのは、楽しむことを理解し、勇気を持って前に進むこと

(2014年03月03日更新)

  • 器用貧乏という言葉がある。 物事の全般はできるが、代わりに秀でたものがない人を指して使われる言葉だと思うが、僕は自分がこの言葉通りの人間だと思うことがある。 僕は学生時代から今日まで大体平均以上で生きてきた。 運動も、学業も、仕事も、恋愛もそれなり。 目立ってできるわけでもなく、致命的にできないわけでもない。 若い頃はそれが、良いことだと思っていたのだが、社会に出て暫くして、そのことがたまらなく嫌に感じる時がある。 何でもできるは何にもできない。 何だかそんなことを言われてる気がして、そして自分が社会的にはそういう人間なんだと気がつく瞬間は、どうにも気が滅入ってしまう。 何かにも書いたと思うが、サヴァン症候群という病気があって、詳しくはWIKIってもらえば良いのだが、この病気は日常生活に支障をきたすほどの難病であるが、一方でその難病を抱える人が、とんでもない能力を持っていることがある。 例えば一度見たものを完全に再現してみたり、円周率を間違うことなく数十万桁まで覚えていたり、とにかく常人では及ばない力を持っていることがある。 個人的に思うのは、この能力は決して、その人が欠けていることで補完された能力とかではなく、人間の本来持っている能力がいかに高いのかという事だと思うので、まだまだ進化を続ける可能性の大きさに驚くばかりである。 ノミのジャンプと言う有名な話があって、本来のジャンプ力より遥かに低い箱の中で育てられたノミは、その箱から放たれても箱の高さを超えるジャンプをしないそうだ。 人の力というものも、思い込みや、決め付けによってリミットをかけていて、それが所謂常識であったり、怠慢であったりして、器用な人ほどその枠を外すことが苦手なのではないだろうか、と思ったりする。 十年ほど前に妹尾河童さんの本を読み返した時に、ふとそんなことを思ったことがある。 当時の僕は恐ろしく何も考えておらず、ただ毎日の仕事をこなすことだけに集中して、一方でどこかで物書きになりたいという思いがあって、少しの文章を書き始めた時でもあった。 妹尾さんの本は実は僕の趣味ではない。 大学生の頃に人が読んでいたものをもらって流し読んだ程度で、驚いたのは文章というよりは、イラスト描写の精緻さだった。 「何て細かな人なんだろう」 たぶん誰もが思う感想を僕も思った。 同時に「この人は絵がとても好きなんだろうなあ」と思う。 僕は今この「好き」という感情がなによりも大切だと思っている。 好きであれば楽しいだろうし、夢中になるだろう。 夢中になることができれば、好きな事はその人の中で何物にも揺るがない大樹となる可能性を秘めている。 40を超え、永遠も半ばを過ぎて感じるには遅すぎる感情だが、いくばくかの思いを持って、実はこのエッセイサイトを書いている。 おっさんのロマンチックに興味はないだろうが、それでも敢えて書かせてもらえば、僕は文章を書きながら、どこかで前に向かって進んでいる気がするのである。 それは器用だった自分から、抜け出せるような気がして、同時に自分にも何か特別なものを持つことができるかもしれない、何てことを思うのである。 「少年H」という映画は、先の大戦を生き抜いた著者の実体験を元に、その時代のある家族の生き様を描いている。 戦争に向かう時代の中で、主人公の少年は常に純粋で、真っ直ぐに絵を愛し、正しくあった。 だから少年は不器用で、周りから見ればどこかで欠けているように映るが、少年は時代が代わっても変わらない強さを持っていた。 本当の強さとは一点を見つめ、その一点に向かい進んでいくことであると、この映画を通して聞こえてくるようである。 やがて、正しく生きた家族と共に終戦を迎えた少年は、時代と社会に嫌気を感じ、家族とも決別し、しかし嫌った社会の中に飛び出していく。 そして少年は看板を描く職人として、第一歩を歩みだす。 映画の中の少年が、その後細緻なイラストを書く舞台美術家になるのだと思うと、ノスタルジーを感じずにはいられない。 ひとつのことを追求していく人は、やはり僕とは違うなあと思うことがある。 僕とそういう人たちとの違いは、たぶん妥協のタイミングではないかと思ったりする。 僕は、大部分はまあまあできてしまうと辞めてしまうし、楽しいなあと思っても、そんなに長く続く方でもない。 そういった性分なので、努力して何かを得たという経験がほとんどない。 それは多分ある程度の器用さを持っていたせいだと思うのだが、器用であることが良いことだったのか、悪いことだったかは正直わからない。 わからないものは考えてもしょうがないので、最近は自分がどれだけ楽しい思いができたか、が一番重要ではないかと思うようにしている。 少年は、描くことで希望を見出していこうとする。 たぶん少年は理不尽さの中で、立ちいかない自分の不器用さと、怒りのようなものを抱え、楽しいという思いのできる絵に向かうことで、そういった不満やいらだちを解消させていったのではないか。 今の僕は幼き妹尾少年のように、どこかで自分の器用さに窮屈さを感じ、がむしゃらに何かをしない自分の性格に対し、不満を持っている。 生きにくさを解消するために大切なのは、楽しむことを理解し、勇気を持って前に進むことだと、この映画の少年に教えられた気がする。 まだまだ映画に教えられることはあるものである。 PS 前半で感じた水谷豊さんの関西弁のおかしさなどは、後半では気にもならなくなりました。 良い映画でした。
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