灼熱の魂

監督 デニ・ヴィルヌーヴ
出演 ルブナ・アザバル メリッサ・デゾルモー=プーラン
制作 2010年カナダ・フランス

行動の動力は、憎しみであり、その憎しみの根源は、「違い」である

(2014年01月18日更新)

  • ホラー映画なんかで、軽そうな女子大生と、マッチョだが頭空っぽの男子学生が、キャンプ地でいいムードになっていると、殺人鬼が現れ、男子学生が殺されるシーンがある。 アクション映画なんかでは、「ここは俺が食い止める。お前たちは先に行け。大丈夫俺は死なない」とか言って、前線で一人残る勇敢な男。 男は仲間が行ったのを見届け、敵に無残にも殺されてしまう。 こういう定番のシーンに遭遇するときに、一般に「フラグが立つ」と呼ばれる。 「フラグが立つ」のは日常生活でもたまに見られ、飛び込み営業で入った会社で、最初はだるそうに話をしていた相手が、ノベルティーグッズで作ったアイドルのプリント入りのクリアファイルなんかを見せた時に、以上に食い付きが良かった時なんかに、「契約フラグが立ったっぽくね?」とか心で思ったりする。 僕は仕事でプログラムを書くので、エンジニアっぽくスカして言うと、「フラグ」は次のメソッドにつながる条件設定を指し、ある特定のイベントを出現させるための条件が揃った時に、「フラグが立つ」と言う。 映画での定番シーンの出現は、言わば次への振る舞いの「条件」であり、「条件」が満たされれば、次のメソッド(映像)が実行される。 映画にこのような「フラグ」があるのは、決められた時間の中で表現を行おうとすると、イメージしやすい場面を入れ込もうとするのは至極当然の行為であり、そういう理解しやすいシーンがあるからこそ、映画は芸術ではなく、娯楽として位置づけられているのではないかと思う。 逆にイメージを覆す表現を行うと名作になり、そのイメージを自ら作ると芸術に変わる。 ピカソは視覚への挑戦を絵画で行い、マルセル・デュシャンは便器にサインすることで芸術に挑戦をした。 イメージというものを理解した上で、どのように対立した表現をしていくかで、作品は芸術か娯楽かにシフトしていくのだろうと思う。 先日「灼熱の魂」というレバノンだろうか、激しい紛争地である中東のどこかでの物語を観ながら、何となくイメージについて考えていた。 映画の中で、子どもを探す女性は、戦闘地区に入るために、十字架とスカーフを持って行く。 キリスト教徒のエリアでは十字架を首からかけ、イスラム教徒のエリアではスカーフを巻く。 教徒のイメージを巧みに扱い、命を永らえるが、そこであった悲惨な体験から、キリスト教徒側の組織に対し憎悪を抱く。 結果として彼女はイスラム政府軍のスパイとして敵の指導者を殺害し、捕縛される。 その後は悲惨な拷問が彼女を待ち受け、レイプの末、彼女は双子を身ごもってしまう。 なんとも切ない話で、ああ日本に生まれてよかったなあと心から思う次第ではあるのだが、それはさておき、この物語の世界はイメージで溢れている。 異教徒の子供を身ごもった女性への酷い仕打ち。 子どもさえも簡単に射殺してしまう宗教観の対立による、残虐なまでの争い。 敵への憎悪から、敵を完全に淘汰しようとする、民族浄化の行為。 そのどれもが異教徒間同士の争いを象徴するかのような非人間的な行為である。 その行動の動力は、憎しみであり、その憎しみの根源は、「違い」である。 宗教的に違うということが悪であるという「フラグ」を相手に立て、自分を滅ぼす存在であるというイメージにつながる。 歴史上見ても、平和を得るためには異なるイメージを受け入れるということが必要であり、それができないためにローマがカルタゴに行ったように、土地に塩を撒いて草さえも生やさないような浄化を行おうとする。 お互いが憎しみの連鎖を繰り返し、どちらかの敗北で終了をする。 こんなことを人類は数千年繰り返し、今もどこかの国で、街で、同じことが繰り返されている。 まさに共通のイメージを伴う「フラグ」を繰り返している。 進歩が無い、世界の狭い話である。 僕は、自分が見た目で人を判断しているなあと感じる時、この危うさを感じる。 何となくダメそうな人を見ると、僕の中で「人を見下すフラグ」が立つことを感じる。 同時にとても美人の女性なんかを見ると「僕が見下されているフラグ」が立つことを感じる。 イメージとコンプレックスがつながると卑屈になるものである。
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