櫻の園

監督 中原俊
出演 中島ひろ子 つみきみほ
制作 1990年日本

桜の使い方を確実にしたものは、良い物語として人々の記憶に残る

(2012年12月06日更新)

  • 桜というものは不思議なもので、ただそこにあるだけで何か特別な印象を受ける。 例えば、僕がよく車を走らせる道で、名神高速の高架下にあるしだれ桜があって、桜の季節以外はただの日の当たらない、陰気な歩道なのだが、桜の季節にその桜が満開になると、一気にその周辺が明るく、そして奇異なものに変わる場所がある。 ゲスい例えだが、閑静な街に急にネオン輝く風俗店ができたような感じだろうか。 その美しさが辺りに異様に光をあて、その煌びやかさに僕のようなアラフォーを惑わせてしまうような、そんな面妖さを桜は持っている。 気分的には、坂口安吾の「桜の森の満開の下」の山賊の気分だろうか。 自分が惑うことを知っているので、桜の満開に近づこうとしない。 男は本能的に危険な場所を感知する能力があり、甘い匂いがする谷には、必ず大きな危険があることを知っているので、気を惑わす桜に対して、どこかで恐怖を覚えるのかもしれない。 しかし、桜にまつわるイメージは、純粋で切なく、そして清らかでもある。 桜が出るだけでそれは無垢さを連想させ、純粋なスタートでもあり、潔い儚さを感じさせる。 そして桜に関わる物語の多くは、桜にそのようなイメージを添加させて描かれる。 例えば、中学校の時に読んでいた漫画で「めぞん一刻」という漫画があるのだが、桜にまつわるとても好きなシーンがある。 先にこの漫画の内容を簡単に書くと、下宿人の五代くんは、住んでいる共同アパート「めぞん一刻」の管理人の響子さんに恋心を抱く。 しかし響子さんには前夫を亡くしているということもあって、五代くんは響子さんの前夫の思いを知っているからこそ、深く響子さんの心の中に入っていけない。 まあ、そんなラブストーリーを、人気作家高橋留美子さんが、軽妙なコメディーを加えつつ、多分15巻くらいまであったと思うのだが、話を進め、やがて二人はなんやかやで結ばれる。 結婚の日取りになって、五代くんはその響子さんの前夫への思いを知っているからこそ、前夫の墓の前で自分の決意のようなものを話す。 「初めて会った日から響子さんの中に貴方がいて、そんな響子さんを俺は好きになった。だから、あなたもひっくるめて、響子さんを貰います」 五代くんがこのセリフを行ったあとに、近くで隠れて聞いていた響子さんの頭上に桜の花びらがひらひら落ちるわけで、それがとてもロマンチックに描かれる。 このフレーズを、齢40になる今の僕が見ても、「キャー」と小っ恥ずかしい気障な印象を思うのだが、桜を前にすると、このセリフも純粋さと無垢な気持ちを感じ、意外とすんなりと感動して受け入れられる。 もともと恋愛ものに抵抗があまりないということもあるのかもしれないが、僕はこのシーンを思う時、なんとなくだが切なさと、爽快さを感じてしまう。 おっさんのロマンチシズムはこれくらいにして、映画「櫻の園」は私立女子中学校に通う演劇部の女の子達が、創立記念日に必ず演じるというチェーホフの「櫻の園」という舞台を演じるというだけの話なのだが、そのただの決まりごとに真摯に向かっていく少女たちの思いを、中原俊は見事に美しく映像化している。 この映画は中島ひろ子さん主演と福田沙紀さん主演の2バージョン作られているのだが、個人的には中島ひろ子さんの方が、女子校生感と、なんとなくだが官能的な部分も垣間見れて、好みではある。 この映画の女の子たちは、さして好きでも、思い入れも多分なかった、伝統だというだけで行われてきた演目に対し、熱を持って演じることに全力を向ける。 全般女子だけで描かれる構図は、人間をきちんと撮ることができるこの監督の才能でしか輝かない題材だろう。 僕はこの後に作られる「12人の優しい日本人」は、日本映画のベスト10に入る映画だと思っている。 横道に逸れたが、桜が持つイメージは多様で、しかし桜に対する愛情はほとんどの日本人が共通して持っている。 多様だが共通した桜のイメージによって物語が作られて、感動や共感を呼ぶことができるのは多分日本だけではないだろうか? 桜が日本の心と言われるのはそれが所以であり、そして、その桜の使い方を確実にしたものは、良い物語として人々の記憶に残る。
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