スパイダーマン
監督 サム・ライミ
出演 トビー・マグワイア キルスティン・ダンスト ウィレム・デフォー
制作 2002年アメリカ
スパイダーマンで泣くような奴は、僕くらいであってほしい
(2012年8月20日更新)
- アラフォーになり涙もろくなった。 昔は映画を観て泣くことはなかった。 学生時代に「火垂るの墓」を友達4人で観ようということになって部屋で観たのだが、僕以外の人は全員泣いていたのに、僕だけ泣かなかった経験があり、その時に鬼呼ばわりされたのを覚えている。 しかし、言い訳をさせてもらうと、僕が「火垂るの墓」で泣かなかったのは、原作の野坂昭如さんのせいで、深夜の番組で大島渚監督と子供じみた喧嘩をしているのが頭にちらつき、どうしても感情移入できなかったことに有るからで、決して物語が悲しくなかったわけではない。 戦時中の事は多分そのへんの学生より知っていたこともあって、何となくだが、悲しみの浅さを感じてしまったこともある。 本当に悲しいのは愛する者のために死を選ぶ生き方を余儀なくされた戦争という行為そのもので、狂った時代の中の真実の一篇一篇とを比べると、余りにも火垂るの墓はよくできた物語すぎた。 僕は国を思い、愛する人々のために死んでいった戦時の若者の物語には、深く感動し、その無念さに泣くことができる。 しかし、戦争という悲劇の中で、弱いものが苦しみ死んでいくという、ただ悲しみだけを帯びた物語は好きにはなれない。 最初から「泣いてね」と言われているようで、何となく倦厭してしまうのである。 まあ、性格がひねくれているだけなのだが。 映画を観て泣く、というメカニズムはたぶん至極単純なのであろう。 その物語に自らを投影し、そして映像で起きたことを自らの出来事の様に感じ、楽しければ笑い、悲しければ泣く。 つまりはいかに映画の中に自分が入り込めるかが鍵であり、僕はこの入り込むという事にあまり向いていないようだ。 昔から、小さな事でも「そうか?」と感じることがあれば、その瞬間から何故か俯瞰で物事を見てしまうところがある。 普段生活していてもそうで、例えばみんなで何かをしよう!となっても、どこかその様子を俯瞰で眺めているところがある。 つくづく集団行動が苦手だなあと思う瞬間でもあるのだが、映画の見方さえも斜に構えているようでは、普通の人の半分くらいしか人生を楽しめていないのではないだろうか、と思う時もある。 僕が名作だなあと思う映画の大半は、矛盾を感じにくい映画なので、必然的に静かな映画が多いのだが、冒頭で書いたように、アラフォーになって、少し映画の見方も変わってきていることに気づいた。 恥ずかしながら僕は「スパイダーマン」という、大人から子供まで楽しめる、アメコミで有名な物語の実写版で、しかも監督サム・ライミ(死霊のはらわたの人)という奇抜な監督が作ったヒーローものに涙を流してしまった。 うっそんと思って続編も観に行ったのだが、それももれなく泣いてしまった。 その時はどこに泣ける場面があるねんと自分で自分に突っ込んでいたのだが、先日娘にせがまれビデオ屋で借りて見直すと、一つわかったことがあった。 スパイダーマンは、浪花節なのである。 主人公は若いながら自らの大いなる力に苦悩し、しかし、人々の愛や、自らの仁の心で悪に立ち向かおうとする。 物語は勧善懲悪で、些かご都合主義的な場面も多くあるが、観ていても小気味がいい。 原作はアニメで、ヒーローものであるということから、多少の矛盾や荒唐無稽な動きに対しても、寛容になれる。 つまり物理的に「おや?」と思うことがあっても、「アニメだし。そもそも怪人なんていないし。」と片付けられる点があり、尚且つ主人公の心の揺れや、義理や人情、愛情などが物語の中でひしめき合って、チープさを構成しているにもかかわらず不快感や疑問を持たない。 寧ろスパイダーマンの苦悩は、自分の感情にも投影でき、且つわかりやすく同情できる。 簡単に言うとわかりやすいのである。 スパイダーマンは、アニメという世界観を保ちながら、誰にでもあるような等身大の話しが盛り込まれている。 その単純さが、矛盾や空々しさを全て排除し、直球で自らの心に響いてくる。 執拗なまでに主人公のピーターに辛く当たる現実に対し、光が差し、その光の暖かさが、自分のどこかの部分に合致し、感動をする。 「火垂るの墓」は現実の世界のアニメ化で、「スパイダーマン」はアニメ世界の実写化である。 ある種現実ではない虚構の中の悲しみの方が、現実にある悲しみとリンクしやすいのかもしれない。 しかし真実の物語の中にある悲しみや、すぐそこにある現実社会の悲しみに気づかない人間が増えてしまうと、それはそれでそら恐ろしい社会だとは思うので、スパイダーマンで泣くような奴は、僕くらいであってほしい。
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