サイダーハウス・ルール

監督 ラッセ・ハルストレム
出演 トビー・マグワイア  シャーリーズ・セロン
制作 1999年アメリカ

愛というものの危うさを突きつける

(2012年06月07日更新)

  • 出来ちゃった結婚という言葉が昔から嫌いである。 何か子どもが出来たから仕方なく結婚するようで、じゃあ子供ができなかったらどうなんだ、とツッコミを入れたくなる。 何よりも増して、芸能人カップルが結婚報告で「私たちはまだ出来ていませんから」何てことを言ったりするのを見ても、何だか違うなあ、と思ってしまう。 確かに「恋愛は詩で結婚は散文である」と言った作家もいたくらいで、一般的には結婚は諦めてするような所があるのかもしれない。 しかし、そういうことは人に言うべきことではないので、破天荒な芸人とかがこんなことを言うのならばまだしも、そこらじゅうでこんな風潮が出来上がると、何となくだが不安になってくる。 僕は無神論者でモラルも低いので、子どものせいで結婚するくらいならば、いっそ堕胎したほうが良いのではないかとさえ思う。 一方で貞操観念という言葉がある。 昔の言葉だが、要は操を立てるということで、簡単に言うと誰にでもやらせないし誰とでもしないということである。 僕はこの貞操観念というものが廃れてしまったことについては、一つの意見を持っている。 古代の日本はこの辺の貞操観念が無く、気が合えばそれこそ犬猫のように交わっていたようである。 そもそも結婚の概念が無いのでそれも良しなのだが、当然ながらこれではいかんと、その内に結婚制度がなんとなくでき始める。 しかし、人間の業は深く、時代が変わるにつれて、結婚の制度は保ちつつも、路銀を稼いで身を売るものが現れる。 彼女らは遊女と呼ばれ、元は文字通り歌を歌い踊りを踊り旅をする人たちだったが、旅の資金稼ぎに売春行為を行う。 その後京都で出雲大社の巫女を名乗る阿国の女歌舞伎が大流行し、男性の人気を集めると、その歌舞伎を演ずる女性たちが売春を始める。 1617年に、徳川の時代に、このような風俗は風紀を乱すとし、私娼を潰し、国で性を管理する公娼制度としての遊郭を作ったのが、かの有名な吉原遊郭である。 そしてこの遊郭は質の善し悪しはあれ、江戸時代から昭和にかけて残り続け、完全に売春が禁止されるのは1958年の売春防止法の施工まで、連綿と残り続けるのである。 この流れからもわかるように、貞操観念は遥か昔から日本人の、特に男は獲得できなかったわけで、結婚という制度を保つために、一方で自由な性の交渉ができる場を用意していた。 それもできなくなったのはわずか半世紀前で、急に精神を気高く持ち、貞操観念を持って相手に接しなさいと言われても、戒律の厳しい宗教にでも入信していない限り、とても個人の自制心では難しいだろう。 しかし比較的真面目な日本人は、その抑えられた性欲を発散するために、犯罪という手段や自由すぎる性に求めず、アダルトな映像にはけ口を求めたことで、日本は世界でも冠たるエロ国家の烙印を押される。 確かに世界を見渡しても、これだけエロ文化が浸透した国はないかもしれない。 話が長くなったのでそろそろ結論にするが、できちゃった結婚は、言わば日本人の貞操観念の行き着く先でではないかと思う。 これまで結婚制度を保つために、つまりは誰とでもしないようにするため、遊女というそれ専用の人を社会で作り上げることで、そのはけ口を作っていた。 しかし、それも社会の風紀風俗を乱し、病気を蔓延させるからダメであるという烙印が押された結果、恋愛という別の概念が膨らみ、恋愛の名のもとに、相手を好きであれば性を求めても良いという逆説的な考えに派生し、昔以上に快楽を貪るという形が生まれたのではないだろうか。 要は愛があるから何したっていいじゃない的な考え方である。 その結果として出来ちゃった結婚という歪な風潮が生まれる。 かなり個人的な意見ではあるが、現代人の持つ恋愛という概念は、性の抑圧があるからこそ発生した考え方で、性に奔放な時代は、この考えはあまり重きはなかったのではないかと思っている。 頭や感情だけで満たされるよりは、五感で満たされる方が誰だって良いはずで、獣的だと言われるかもしれないが、恋愛欲求より性欲求の方がむしろ人間的だと考える。 性的に満たすことができないからこそ、別次元での恋愛という概念を作り、その恋愛の大きさで性を求める感情を穴埋めし、しかしその情の深さゆえに、性が肥大化し、激しい性交渉を行うことになる。 結局はそれは唯のスケベ心から生まれた快楽の末路であって、世間で言う愛の深さ故に相手を求めるのとは、違うのではないかと思うのである。 しかし、恋愛は大きな勘違いから始まるそうなので、それもまた真なりではあるのだが。 先日映画「サイダーハウス・ルール」を久しぶりに深夜帯の時間でやっていたので、何気なく観ていると、主人公は美しい女性に性の喜びを覚え、女性も彼氏が戦場に行った寂しさに主人公に性を求めるシーンがあった。 そこに恋愛的な価値観よりは寧ろ、体を求める奔放な性を感じられた。 娘を愛しているからと娘を抱く黒人の日雇い労働者は、自らの愛と性の狭間で、娘への悔恨を口にして死んでいく。 性を愛に置き換えると、あまりにも汚いものを隠しすぎのように聞こえ、空々しく聞こえてくる。 主人公はその性の始末である子どもの堕胎を行う事で、人間の業を受け止め、そして愛というものの危うさを思い知る。 愛を語る時は、同時にその危うさを理解した上で受け止めなければならない。 危うさを理解した上での出来ちゃった結婚は、寧ろ人間の営みとしては正解だとは思う。 しかし、それは決して愛の高ぶりでは無く、性欲を愛という言葉にすり替えて、ただ奔放に接しただけで、本来愛を口にするのならば、その愛を成就させるためにも、性を捨て、相手を慮る気持ちが必要であることを、声を大にしていっておきたいのである。 こんだけ長々とでき婚を恋愛ではなく性欲に支配された行為と蔑みとも言える意見を述べたので、けじめとして、愛について考えてみる。 樋口一葉の小説に「たけくらべ」という小説がある。 この題名は平安時代の物語集「伊勢物語」に出てくる筒井筒の中の2首の歌から取っている。 男:筒井つの井筒にかけしまろが たけ 過ぎにけらしな妹見ざるまに 女: くらべ こし振り分け髪も肩すぎぬ君ならずして誰かあぐべき この男女の相聞の歌詞をあわせて「たけ」「くらべ」となる。 この歌は幼馴染の男女の恋詩で、子どもの頃、筒井筒の周りでたけくらべをしたりして遊んでいた二人が、大きくなるにつれお互いに惹かれていき、やがて疎遠になっても二人とも相手を忘れられず、二人は上記相聞の歌を取り交わし、契を結ぶ。 相手を思い、忍び、そして耐えること。結果二人は愛の存在を知り、性無くして結ばれる。 恋愛の形はそれぞれだが、真の意味での恋愛は、性の対局にあり、性の存在が薄いものである。
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