スパイナルタップ
監督 ロブ・ライナー
出演 クリストファー・ゲスト ロブ・ライナー
制作 1984年アメリカ
ある特定のハードルを超えた人間にしか楽しめない映画、というものもそれなりに魅力があるとは思う
(2012年1月01日更新)
- 中世ヨーロッパで、薔薇十字団なる秘密結社がブームになった。 内容は、黒魔術や錬金術で人々を救うみたいなもののようで、当時の教会や体制に代わる新しいものを提案した点で、おとぎ話的要素が多分にあったにもかかわらず、混迷のヨーロッパの人々に受け入れられたようだ。 まあ、要は際物の西欧オカルティズムの走りではあるのだが、その一部で起こった熱狂的なムーブメントの意味合いは当時では大きかったようだ。 そもそもこの結社が世に示されたのは、ドイツで刊行された出版人や著者も不明の刊行物に書かれた、人類を救う秘密結社とその創始者の生涯についての本が起源とされ、その後どういうわけか、パリで「薔薇十字団長老会議長」という署名の入ったポスターが、街中の壁に張り出されたりして、ああ本当にそんな結社がいるんだということになるのだが、実態はそんな会議は開かれていないし、全ては謎のままで、実際に何を行い、どんな人間がいたのかもあんまり分かっていない。 秘密結社なんだから当たり前じゃん、と思うのかもしれないが、実際に実態を残さない集団なんてものが存在し得るのかは疑問が残る。 しかし、この正体がわからないもの、とりわけそれが神秘性を持つ超常的なものであればあるほど、科学が未成熟なときほど受け入れられやすい。 それが可能か不可能かという検証が欠け、何となく知っている知識を集めた結果、こうじゃないかな?という推測に基づいて立てられた世界観は、確かに客観的に見ても面白い。 当時の先端科学だった錬金術も、今で言う化学の元素周期を知らなければよくわからないのだが、しかし何となく錬金術の仕組みを説明されれば、そういう技術もあるのかもと思ってしまいかねない。 実際に現在科学の最先端である素粒子研究も、理論もなく話をすれば、素粒子が消えたり現れたりするとか、壁をすり抜けるとか、唯のオカルトに聞こえなくもないように、人類の想像を遥かに超えていくものは確かに存在することを、ほとんどの人は否定をしないだろう。 薔薇十字団も連綿とあった人間の不可思議なものに対しての憧れが、社会についての閉塞感みたいなものと相まって、超常的なものが世界を救うという思想になって、一時的なブームになったのかもしれないと考えると、何となくうなずけなくもない。 また神秘的なものは人間の知的好奇心をくすぐるのか、次第にカルト的な要素に発展していき、想像だけで枝葉が別れ、どんどん進化か退化かわからないものに変遷していく。 カルト化する際には科学・宗教・道徳・倫理・法律などと結びつき、荒唐無稽ともいえる絵空物語の中で狂信的なものを含む何かに変貌を遂げていく。 やがてそもそもの主張と関係の無いオカルティズムだけを残し、なぜそのように主張しているのかがわからなくなることもあるのかもしれない。 前置きが壮大すぎたが、オカルトでもカルトでも何でもよいのだが、それが政治とか宗教とか、面倒くさいものに結びつかないモノは好きだ。 オタクのアイドル談義とか、鉄道オタクの鉄道にかける情熱とかは、見ていてもこちらが不勉強でわからないのだが、その熱は伝わるので、なかなかに面白いときがある。 そんな熱を帯びたカルト的な映画といえば「スパイナルタップ」を思いだす。 監督は恋愛映画の女王だったメグ・ライアンや名作「スタンド・バイ・ミー」を世に送ったロブ・ライナーである。 この映画は架空のバンド「スパイナルタップ」のドキュメンタリー映画という呈で作られており、ロブ自身もロックファンなので、この映画の全編にロック史に輝くエピソードが散りばめられている。 パロディー映画とは少し違って、ロック全般の歴史を知る必要があり、その知識の上でしか映画の楽しみがわからないという意味では完全にカルト要素の高い映画で、観る人を選ぶ映画と言える。 しかも架空のバンドであるにもかかわらず、その演奏力は本物で、後に映画と関係の無いアルバムも出しているというから、映画で作った虚像が実像になるという、カルト嗜好をくすぐるおまけまでついている。 僕は映画というものはできるだけ誰が見ても楽しめるものであったほうが良いとは思っているが、しかし、ある特定のハードルを超えた人間にしか楽しめない映画、というものもそれなりに魅力があるとは思う。 オタクという言葉だけで片付けるのではなく、その世界に入ってみてから判断しても別に良いのではないかとは思う。 当然それが人に不快感を与えるものでなければ、ではあるのだが。
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