スリー・ビルボード

監督 マーティン・マクドナー
出演 フランシス・マクドーマンド ウディ・ハレルソン
制作 2017年 アメリカ

自分を守るための嘘が無ければそれは真に他の人の心に届くだろう。

(2019年4月17日更新)

  • 何かで読んだのだが、ローマ帝国のある将軍は「最も恥ずかしい弁解は思っていなかったことである」とかなんとか言ったそうで、要約すると責任ある人間は、想定していない出来事が起こること自体恥ずべき事であると言うことのようだが、齢40オーバーの責任ある立場の僕なんかは大変耳が痛い話である。 ある種毎日が想定外の行き当たりばったりなので、恥ずかしい大人であるわけなのだが、とは言え本人はまあまあ楽しかったりするものである。
    最近スポーツ界が揺れているようで、揺れている原因はこの「思っていなかった」事を公然と宣うお偉いさんたちが、まさに恥ずべきことが何なのかを知らずに、平然と権力に固執している姿が原因だと思うのだが、彼らを観ているとある種の共通点が見えてくる。 それは彼らが、瞬時に分かる嘘をつくことである。 彼らの嘘は目も当てられないほど稚拙で、その嘘の中に「聞こえなかった」「知らなかった」「そういうものだと理解していなかった」 などという恥ずかしい言葉がちりばめられ、聞いているこちらはもう苦笑いしかない。 おそらく自分のほうがもっとましな嘘をつくと思った方も多いのではないだろうか? よく似たものに政治家の答弁がある。 例えば後援会の会合や、選挙応援パーティーみたいな、自分のテリトリーでマイクを持って話す際に、よほどリラックスしていると見えて本音を言ってしまうのだろう、うっかりと失言なんかをしたりする。 それは時に男女差別だったり、被災者を貶める言葉だったりするのだが、こういった失言の後に出たのは、取り繕いという名の嘘である。 「あの意味は男女差別的な意味ではなく、こうこうこういう意味なのです」 的なあれである。 せっかく上り詰めた権力の椅子なので、なかなか手放しがたいのはわからなくはないのだが、それにしてもなぜこうも往生際が悪いのだろうか。 日本的かどうかわからないのだが、出る杭は打たれるという言葉がある。 目立つと叩かれるという意味だが、そもそも組織の中で強烈な個性で周りの目を集め、出る杭になる人間というのがそんなに多くいるわけではない。 ほとんどの人間は鈍色の光しか放たないただの凡人である。 凡人が出世し、生き抜くためにはポリシーだの、イデオロギーだのを持っていても邪魔でしかない。 周りを見て、空気を読んで、忖度する。 結果、組織のためにしょうもない嘘をつき、保身のために驚きの妄言を放つ。 見ている側は唖然だが、言っている方は特に違和感を持っていない。 なぜならそうやって嘘と恭順で来た道だからである。 今回の映画スリー・ビルボードは、娘を何者かに殺害された母親が起こす行動について描かれた映画である。 何故スリー・ビルボードなのかというと、母は娘を殺害した犯人が捕まらないのは警察のせいだとして、3枚の看板(スリー・ビルボード)で警察を批判する。 なかなかファンキーなクレームではあるが、彼女は自分に大きな嘘をついている。 それは母の非難は警察に向けられながらも、自分に向けても発せられているということで、自分が娘に行ったことへの後悔を、怒りに変えてその矛先を警察に向けているのである。 映画の最後には母親は目的を失い、映画は不自然な印象で終わりを迎える。 彼女の嘘はいつの間にかほかのものに形を変えてしまい、気が付けば嘘をついている理由さえも忘れてしまう。 それは政治家の不自然な言い訳も、言い続けたことで彼の中でだけ誠になってしまったかのようである。 今自分がしている行動に嘘がなければ、その意図はやがて誰かの心に届くかもしれないが、そこに小さな嘘が一つあれば、きっと見透かされてしまい相手にされなくなるだろう。 嘘があることでその嘘を隠すために人は嘘を重ねることになる。 嘘がばれないために、時として人は怒りを相手にぶつける。 しかし物事の解決のために必要なものは怒りや暴力ではなく、忍耐と考察であり、特に怒りは解決の糸口にはならないということである。 自分を守るための嘘が無ければそれは真に他の人の心に届くだろう。
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