ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日

監督 アン・リー
出演 スラージ・シャルマ
制作 2012年アメリカ

苦しいことが多い人生なのだから、希望を持てる生き方をしたいものである

(2013年06月28日更新)

  • どこかにも書いたと思うが、童話の原作には比較的内容の酷いものが多いそうだ。 逆に、現実が悲惨だからこそ、物語が優しい、という場合もある。 例えばドイツに「ハーメルンの笛吹男」という話がある。 現在でも語られるこのお話は、グリム童話の中に出てくるため、子どもの頃に読んだことがある人も多い。 一応知らない人のために話を要約すると、ねずみが大量に発生して困っていた村人に、派手な服を着た男が、いくらかのお金を条件に、笛だけでねずみを退治してしまう。 しかし、村人はしぶちんで、報酬を払おうとしなかったため、怒った男は村の子どもたちを連れていってしまい、村には子どもの姿はなくなってしまった、というお話なのだが、この物語には歴史的なベースがあるのは有名である。 とは言え、1284年の話のようなので、歴史的な証明ができるかといえば難しそうだが、悲しい現実を伝え残すためにこしらえた物語という気がしないでもない。 そもそも物語自体に、子どもの大量失踪を感じさせ、その理由については色々な想像を巡らせてしまう。 実際のところは諸説あるらしく、有力なのは子どもの東方植民説(つまり新天地を求めて移動を行った)だそうだが、この物語の根底には、子どもを失った悲しみがあって、その理由が大人の都合であることが感じられる。 ごく個人的な意見を言えば、大人たちが自らの生活のため、(または疫病などからの回避のために)子どもたちを手放すしかなかったが、その悲しみと罪意識の中で、空想のハーメルンという一種人間離れした存在を生み出したような気がしてならない。 だから物語のハーメルンは、死を運ぶ死神にも見えるし、楽園に誘う天使にも見える。 ドイツのハーメルンにあるマルクト教会に、この物語のステンドガラスがあるそうだ。 ステンドガラスのハーメルンはどこか楽しげでもあり、悲しげでもある。 その曖昧さこそ、現実と夢想の世界の境界を無くし、人の心に安らぎを与える。 現実があまりに厳しいため、その厳しさを和らげるため、人は物語を想像し、神に祈るのかもしれない。 僕は予々聖書というものを信じている人々がどうしても不思議でならなかった。 何故海が割れるだの、死んだ人間が生き返るだの、そんな荒唐無稽な話を多くの人が信じているのか。 しかし、人は物語の中で神を見出し、そして神がいると思うことで、この現世に安らぎをもつことができるのかもしれないと考えると、何となくだが、聖書の物語を信じる気持ちもわからなくはない。 「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」を観て、最初は動物との触れ合い映画か何かで、畑正憲さん監修かしらんと思っていたのだが、内容は大きく違い、海難事故にあった少年が、家族を失い、長期の漂流を一匹のトラと強いられる過酷な体験を描いた物語だった。 少年は生死の体験の中で、世界にトラを見出し、見出したトラと共に生死の境をくぐり抜けていく。 本来少年が漂流した227日は壮絶で、救いもない状況だが、そんな少年を正気に保たせるのは、やはり死から逃れるため空想した物語だった。 少年の物語を映画は紡いでいくため、その映像は絶えず美しく、トラは雄々しく、自然は大きな驚異を持って彼に襲い掛かる。 そんな中も少年は生きるために前向きに行動し、やがて共に旅を終える。 自然の美しさは、少年の生きたいと願う気持ちを強く感じることができ、海の荒々しさや神秘は、人間がこの世界の中でちっぽけな存在であるということを感じることができる。 僕たちはあまりに机の前で物事を見すぎていて、感性に訴えかけるものを少しづつ失っているような気がする。 本当の悲しさは、美しさや、楽しさに転化され、本当の苦しさは、希望の輝きや神秘的な世界に転化される。 数多ある物語もそれぞれに人の心が宿っているのだと考えると、筋道や理屈は無くてもそこに安らぎを感じることはできる。 人間は物語を考えることができる唯一の動物である。 その神様からのギフトをもっと使うことで、より幸せに生きることができるのかもしれない。 どうせ苦しいことが多い人生なのだから、希望を持てる生き方をしたいものである。
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