わたしを離さないで

監督 マーク・ロマネク
出演 キャリー・マリガン キーラ・ナイトレイ
制作 2010年イギリス=アメリカ

観る側がどう受け取るかで、この映画を現実には起こりえない、ただの物語にしてくれる

(2012年08月29日更新)

  • 楽しかった連休明けに会社に行くと、ああやだなあ、誰か代わりに行ってくれないかなあ、とよく思う。 子どもか!と思うかもしれないが、思うのだからしょうがない。 上司に言ったら、「ずっと休みでもいいよ」と優しく言われそうなので、頑張ってスーツを着るのだが、ああ、パーマンのコピーロボットがあればなあ、と思うことがしばしばある。 鼻を押すだけで自分のコピーが生まれ、しかも言うことをよく聞く。 昔小学校の頃、双子だったら交互に学校に行って、学校に通うのも半分でいいのになあと本気で考えたことがあるが、双子だと相手が言うことを聞かないので、多分お互いが学校に行きたくないので喧嘩になるだろうが、コピーロボットなら「アイアイサー」の掛け声で、嫌なことを引き受けてくれる。 しかし、その従順だった自分の分身に逆に支配されてしまうなんてのは、SFでよくある手だ。 この点コピーロボットは、鼻を押すとリセットされるので、抵抗しても鼻を押せばいいので、支配の心配も無い。 藤子先生はすごいロボットを考えるものだと思ったものだが、現実にそんなロボットができればそれこそ人類の英知であり、その知恵の結晶をサボリに使う事自体ダメなので、多分本当にコピーロボットができても、僕のような人間には触れることもできないだろう。 一方で現実世界ではクローン技術なるものが既に哺乳類の複製に成功しており、有名なのは1996年にイギリスで作られた、羊のドリーだろう。 ドリーは成体の体細胞を用いて生まれたはじめての哺乳類のクローンで、その遺伝子は、細胞を提供をした羊とほぼ同じだというから、文字通りの複製である。 このクローン羊は、その後普通に生殖をして、子どもを生んでいるそうで、生き物の根源である繁殖をクローンにも出来ることが分かっている。 しかし、物言わぬ動物の話なので、人間を複製した場合、複雑な脳機能まで同じになるのかという問題や、倫理的な側面から人類に応用するのは科学の力だけでは前に進みようが無いように思う。 現在は移植臓器の作成にとどまっているようで、クローン技術は再生医療の分野で期待されている。 では、もしもこのクローン技術が人間に応用され、クローン人間が出現し、このクローン人間そのものを再生医療の道具として社会があったら? 映画「わたしを離さないで」は、クローン技術と再生医療という現代のタブーを根源とした物語である。 倫理観糞くらえで、人間様に尽くすクローンをまるで魚を養殖するかの如く、ひとところで飼育し、成熟するとその部位を再生医療で使用する。 提供と呼ばれるその行為は、数回にわたり、それこそクローンが死ぬまで続けられる。 「おおなんちゅうことを。神様」と思う人もいるだろうが、人類は人間以外の利用できる動物に対し、ほぼ同じような行為を行なっている。 食に対しては、鶏や牛は狭い敷地の中でただ食肉になるために生きている。 実際の家畜の状況を知れば目を覆わんばかりの現実もあるのだが、僕たちはスーパーで並ぶ肉しか見ないので、その肉がかつて生き物だったことも忘れかけている。 人類は「生命を利用する」と言う一点においては、いつ人間を使用した再生医療に踏み出してもおかしくないと思うのは僕だけだろうか? 「わたしを離さないで」は、そう言う現代社会の生命の養殖の現実を鑑みると、恐るべきリアリティーを持っているが、しかし善人である大抵の人からすれば荒唐無稽な物語である。 人のエゴと人の気高さを天秤にかけた時、僕は人は気高い生き物であると思いたいが、同時に人は区別をする。 人は区別をすることで、自分とは違うと考え、自分とは違うものを排斥する。 これはたぶん本能ではないかと思う。 そもそも怖れや、虚栄心や、自尊心や、その他なんやかやが合わさって区別が生まれると思うが、区別が差別を生み差別が支配を生むのは歴史が証明している。 区別を繰り返してきた人類の歴史を知るからこそ、この映画にリアリティーを感じるのかもしれない。 同時にこの映画には愛が描かれている。 それは命を保つための愛だろうか。それとも短い人生の中に生きがいを見出すための愛だろうか。 それとも人間がその根源に持つ慈愛に満ちた愛なのだろうか。 その答えを観る側がどう受け取るかで、この映画は現実にも、空想物語にもなりうる。
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