レスラー

監督 ダーレン・アロノフスキー
出演 ミッキー・ローク マリサ・トメイ
制作 2009年アメリカ

普段は格好が悪いパパだけど、仕事中のパパは格好いいんだよ

(2012年01月01日更新)

  • 忌野清志郎さんの歌に「パパの歌」というものがある。 普段は格好が悪いパパだけど、仕事中のパパは格好いいんだよ、という年頃の子どもを持つ親には大変ありがたい歌なのだが、世の中のパパで、自分の仕事を子どもに見せたいと思っている人はどれだけいるのだろうか。 一般的に、子どもが親と同じ職業に就くというのは、それは父親に対する尊敬からではなく、ただ仕事を探すのが面倒だからとか、融通が聞くからみたいな感じが多いのではないだろうか? そもそも仕事をしている姿を子どもに見せることができる職業は、世の中にはあまりないのではないだろうか。 しかも運良くそのような職業に就いていても、子どもに格好の良いところを見せることができる職業も、これまた稀である。 昔、父親が塾運営をしている子どもと話をした時に、その子は父親から勉強を習う気になれないとはっきり言っていた。 お笑い芸人の子どもとかも、たぶん子どもから見れば、親の仕事はなかなか理解しにくいだろう。 その点スポーツ選手は、子どものヒーローになることができる数少ない仕事ではないだろうか。 スポーツの醍醐味は、毎日の努力で得られた神技と、絆により得られた勝利を、垣間見ることが出来ることだろう。 ファンは純粋にそのひたむきな努力と勝利に向けた執念に感動をする。 古今東西の物語の中でも、こういったものが多くあり、映画ではロッキーが有名なところだろうか。 小説では、中島らもさんの短編に「お父さんのバックドロップ」というのがあって、映画化もされたようなのだが、これがバッチリ「パパの歌」のように、地方プロレスラーの父を持つ息子に対して、父が一念発起して世界空手チャンピオンと戦うという無謀な挑戦に挑む物語だ。 息子は父に対し、または父の仕事に対していい思いを持っておらず、しかし、父はプロレスしかなく、プロレスの試合を見せることで息子に分かってもらおうとする。 人が一生懸命な姿に感動しない人はいない。それは信頼を失った子どもとて例外ではないはずである。 単純な物語ではあるが、明快な答えがそこにある。 映画「レスラー」は、文字通りレスラーの話である。 昔は人気があったが今は落ちぶれて、スーパーのバイトをかけもつ、全盛期をとうに過ぎたレスラーの話である。 レスラーは独り身で、トレーラー生活をして、近所の子どもからも少しうざったく感じられ、たったひとりの娘に対しても信頼がない。 長年の肉体の行使と、ステロイド剤の服用で、体は限界をきたしている。 しかし、彼に出来ることはリングに立つことだけである。 映画ではアメリカのプロレス人気の衰えと、タブーとされるプロレスの内情を見ることができる。 物語の大半は、ただレスラーの悲哀を描いているだけのように見えるが、この映画の中には子に向けた父のメッセージが隠されている。 それは「お父さんのバックドロップ」と同じように、プロレスのリングでしか、自分の生き方を示すことができないもどかしさと、父が娘をどれほどか思っているということである。 子を持つ親としては、その痛々しいまでの不器用さに、胸が締め付けられてしまう。 もう一つ、この映画で讃賞を贈りたいのは、主人公のレスラーを演じたミッキー・ロークの演技である。 いくつもの賞をもらっているので細かな内容は置いておくとして、この映画の中のミッキーは、奇跡といってもいいくらい変貌を遂げている。 それは、かつていろんな人が見せた、デ・ニーロ アプローチ(ロバート・デ・ニーロが映画「レイジング・ブル」の劇中で見せた、役作りのために大幅な体重増減を行なうという、役者としてのアプローチの事)を遥かに超えた、レスラーとしての体格改造の姿である。 最近ではシャーリーズ・セロンやクリスチャン・ベールのように見た目をメイク等ではなく、物語に合うように肉体を変えて挑む姿を見せているが、ミッキーのレスラーとしての風格は到底、50を半ば過ぎた初老の男が挑んだ役作りとは思えない仕上がりである。 正直劇中の彼は、白いドレスの女で脚光を浴びたミッキー・ロークではなく、本当に落ちぶれたレスラーにしか見えなかった。 ボクサー時代に試合で見せた、ネコパンチの汚名返上である。 本当に子どもに見せなければいけない昼間のパパは、ミッキーのように極限まで一つの事を追求していく、プロ根性なのかもしれない。
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