ルーム

監督 レニー・アブラハムソン
出演 ブリー・ラーソン ジェイコブ・トレンブレイ
制作 2015年 カナダ・アイルランド

世界はワンルームの中にしかなく、自然は天窓から差す日差しだけ

(2016年10月27日更新)

  • 適応という言葉がある。 生物がその環境に有利な形状・形質を持ち、且つ生存や繁殖を行うための変化をすることで、生存欲求に対応した生物の本能とも言える。 ダーウィンは、ガラパゴス諸島で適応による多様性を見たことから進化論を導き出したといわれているが、こういった適応による変化は、ガラパゴス諸島に行かなくても身近な動物にもみられる。 例えば害虫の類などは、殺虫剤による耐性ができたグループが爆発的に増えていて、既存の殺虫剤では死なないものも出てきている。 完全に駆除しなければ適応により、弱点のない害虫が増えていくことになるので、殺虫剤の会社は鼬ごっこになってしまう。 ウィルスの世界でも、スーパーウィルス的なものがパンデミックを引き起こすというような話は、ついぞ前から聞くようになった。 そもそもウィルスというものは、毎年変異の中から生まれるので、毎回違っていても不思議はないのだが、駆逐できないウィルスなんてものが出てきてしまうと、パニック映画さながらの恐怖感は抱いてしまう。 とは言え、人類はウィルスとの戦いの歴史があり、これまでも勝ち続けているので、医学の発展と英知に期待するしか無学の僕にはないので、万が一にもウィルスが人類に勝つ日が来たら、おとなしくリンゴの木を植える心境で臨もうかと思う。 とは言え、適応があったからこそあらゆつ生物は進化し生き抜くことができたわけで、生物にとって適応が必要な能力であることは否めない事実なのである。 そして当然ながら人間にも適応はある。 例えば、地方の山に囲まれて生活していた人が都会に出て受ける人の多さや建物の密集も、1年もすればすっかり慣れてしまう。 人間も適応するからこそ苦しい現代社会を渡っていくことができるのである。 しかし、この適応はすべてが進化につながるものではない。 例えば蚤の限界の話があって、知らない人のために書くと、箱に入って育てた蚤は、その箱の高さよりも高く飛ぶことができなくなる。 これは蚤が箱の中に適応したからであるが、適応した蚤は言わば退化しまうところが、面白い。 この話がよく聞かれるのは、新入社員の研修などで、この話をベースに「蚤は自分の限界を作っている」ということになるようで、人間も自分で限界を作っているだけなので、大きな目標を掲げることで、自分の限界を突破せよみたいな、ロジックに結びついていく。 営業会社に多い傾向で、限界は営業成績と言い換えることができ、繰り返し挑戦することでその限界を超え、利益を生んでね、ということらしい。 しかし、この話のロジックがいささかおかしいのは、蚤が飛ぶ高さを変えたのは、飛びすぎることで空間にぶつかることが無いようにしている、いわば一種の防御本能に根差す行動であるということにある。 そもそも蚤は限界を自分で決めていないし、蚤が本来適応による高さ以上飛べるのだとしても、その高さ以上に飛べるようになるのは、ある種のノウハウが必要なはずである。 つまり、10メートルしか飛べない連中の中で、本来飛べるはずの20メールを飛ぶためには、その事実を知ることと、飛び方を教え込む必要がある。 蚤は適応によってとび幅を変えてしまったのだから、本来の高さの飛び方を知らないのである。 自分でリミッターを決めているわけではないのである。 適応とはあくまで自分が生き抜くための能力であって、発展的努力を要して高めていく必要があるものは、知識も必要であることは間違いない。 そういった意味では知識を与えることでその環境に正しく適応するのである。 ということで今回の映画紹介は「ルーム」という、元も子もない言い方をすると、変態監禁映画である。 ある親子は、ほんの5畳程度の部屋(ルーム)で暮らしている。 世界はワンルームの中にしかなく、自然は天窓から差す日差しだけである。 その環境で育った子どもは、環境に適応するよう、部屋の中の世界を無限とも思える想像力でカバーしていく。 やがてその世界から解放された子どもは、広がった世界に対し、違和感を感じ、同時に元いた「ルーム」に戻りたいと思うようになる。 常識に照らすとかわいそうな話だと思うのだが、それは海面に暮らす魚が、深海の魚に対してかわいそうと考えるようなもので、その世界しか知らないものにとっては、何がかわいそうなのか理解できない。 住めば都ではないが、どんなに過酷で、生きるのに困難でも、適応を果たせばそこが最も住みよい空間になる。 しかし、生き物にとっては世界が広いほうがいいだろうし、危険の及ばない世界であるほうが良いに決まっている。 映画の子どもはやがて元いた「ルーム」の環境に別れを告げて、新しい道を歩むことができるようになる。 これも動物の持つ適応能力なのかもしれない。 適応という言葉は、言い換えれば生き抜くということなのだろう。 僕も長らく社会で働きながら、適応をしている。 しかし、それは進化でもあり、退化でもある。 とは言え自由を縛られる生活をしているわけでも、日の食べ物に困る生活をしているわけでもない。 そういう意味ではちっぽけな適応ではあるが、それでも生きることの苦しみは味わってはいる。 どんなものであっても、より良く暮らす権利を奪うことはあってはいけないことである。
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