無能の人

監督 竹中直人
出演 風吹ジュン 山口美也子
制作 1991年日本

今は乞食だがこの先も乞食かもしれない男の話である

(2012年01月01日更新)

  • 僕は大阪で育った。
    昔は今と違って、路上生活者が多く居て、最寄駅の地下鉄の新大阪の改札近くなんかで、よく男の人が寝ているのを見たことがあったし、家の近くの公園に、所謂乞食がテントを張って住んでいたこともある。 子供ながらにもこういう人たちは何で働かないのだろうと、事情も知らず無邪気に思っていた。 中学生の時は、河川敷に住んでいる人の飼っている鶏を檻から放したり、テントの中の布団を河原に投げ込んだりしたこともある。 今思えば反省すべきことである。 中学校の時に顔がコワモテで、いつも赤ら顔で、たまにろれつも怪しいので、酒を飲んで学校に来ているんじゃないかと思うような先生がいた。 実際にもよく保護者会などで生徒の家で酒を飲んでいることも多い人で、僕の友達の家でご相伴に預かることもあったので、酒は本当に好きだったようだ。 この先生が同じような悪さをしていた友達に、乞食と飲んだ時ということでこんな話しをしたらしい。 「今は乞食でも昔は乞食ではなかったし、この先、乞食ではなくなるかもしれん。 乞食も話せば骨がある奴はおるし、あかん奴もおる。」 この話を伝聞で聞いた時は、先生が乞食とも仲良く酒を飲んでいるという衝撃が先に立って盛り上がったのだが、後々になって、乞食も骨があるやつがいるというくだりが気になった。 大学生になって、知り合ったやつに相当の貧乏がいた。 貧乏すぎてまず家が無い。 今のようにマンガ喫茶なんてない時代なので、どうしているかと聞くと、ファミレスで時間を潰すか、公園で寝泊りをしているという。 彼は、労働を嫌っていたわけではなく、さる事情で大阪にやってきて、家がなかったそうで、見かねたバイト先の先輩が、泊めてやったりして、一ヶ月後位には金も入り住む家も見つかったので、ホームレス生活はそこまで長かった訳ではないのだが、人はちょっとした事情で乞食になれるものだと思った。 人生を重ねていく内にたまに思うのが、人間には2パターンあって、大部分が物で満足するタイプの人間で、ごく稀に心で満足するタイプの人間がいる。 僕も日々の生活や、家族のことなど、正当な理由があって、物で満足する生活を是としているのだが、たまに心で満足する生き方に憧れを抱くことがある。 とはいえ芸術家というがらではないので、種田山頭火のような、心の赴くままに生きていくようなことではなく、ただ単純に好きなものを好きだと言いながら日々暮らすことに、強い憧れを抱く。 しかしそういう心で満足する人間は、社会ではどこか欠けたイメージで見られることがある。 それは話し方であったり、行動であったり、金銭的にであったりするのだが、しかしどこかで神々しいまでの純粋さを持っている。 ひまさえあれば白い石の上に淡飴色の蜂蜜を垂らして、それでひるがおの花を画く少年は、あまりの純粋ゆえにある日ひょいと水に溶けてしまう。 水に溶けるほど純粋でなくてもいいが、今は乞食をやっているくらいの、純粋さがあってもいいのではないかと思う時がある。 映画「無能の人」はタイトル通り何をやってもうまくいかない男の話である。 原作のつげ義春の漫画をかなりの部分で忠実に再現した映画として評価されているが、漫画も併記して読むと、原作にある陰鬱とした世界観は映画にはそこまで見当たらない。 ただ、静けさが映画を支配している。 不幸はきっとこんな静けさの中にあるのかなあとは思うのだが、この物語の本質は、石を売るしかない男の切なさと、本人の力ではどうしようもない悲しさにある。 今は乞食だがこの先も乞食かもしれない男の話である。 それは、純粋さゆえに水に消え入りそうではあるのだが、この世界に溶ける程に澄んだ水はない。 彼は消え入ることもできず、物を得ることもできず、ただ拾った石を売るしかない。 実際に生きていくということは、本当にせつない。
    追記:本文は「乞食」という適切ではない表現をあえて使用しています。当時使っていた現実の言葉を優先したため、特定の人間を貶めるため、または差別を助長するものではありません。
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