マルホランド・ドライブ

監督 デイヴィッド・リンチ
出演 ナオミ・ワッツ アン・ミラー
制作 2002年アメリカ

肩の力を抜いて「まあいいか」と口に出してみれば、少しは楽になるんじゃないかなあ

(2012年01月01日更新)

  • 日本人の誰もが知っている夏目漱石は、妄想癖のあった人のようである。 漱石についての説明は不要と思われるので、ここでは割愛するが、彼の小説の中では妄想癖だと疑われる場面がよく登場する。 「草枕」の中では、以下のような文章がある。 「五年も十年も人の臀に探偵をつけて、人のひる屁の勘定をして、それが人世だと思ってる。そうして人の前へ出て来て、御前は屁をいくつ、ひった、いくつ、ひったと頼みもせぬ事を教える。」 ここでは実際に探偵と言う言葉が出てきており、要は人の屁の数を数える探偵がいて、それが煩わしいと書いているわけである。 そんなアホなと思うのだが、実際の漱石はこの時期に「追跡狂」なる症状を言い渡されている。 本当にそんな病名があるのかは知らないが、追跡狂とは、要は「常に盗聴されている」とか「カメラで撮られている」と勝手に思う、注察妄想の部類に入る精神疾患のようだ。 例えばこの頃の漱石は、一目惚れした女性を思うあまり、架空の縁談を妄想して、その縁談の段取りで兄に激高したこともある。 このような行動から「人と違う」と言う意味において、病であると認定はされるのだろうが、このようなへんてこりんな所があるからこそ、「人と違う」ことが出来たのかも知れない。 僕は普通の人なので、漱石のような、行動に結ぶつくほどのリアルな妄想は持たないのだが、最大に幸せな妄想はよく描く。 正直書くのもはばかるような内容なので、ここでは伏せておくが、大抵は恋愛による妄想が多い。 自分だけなのかしらんと思っていたら、イギリスのある調査で、朝の出勤時に大部分のサラリーマンが、エッチな想像をしているという記事を読んで、安心したことがあった。 大部分の人が妄想を活力にして生きているんだなあ、と変な感心をしてしまった。 妄想は過度に行き過ぎて人を傷つけてはいけないが、その一歩前に留まれるものならどんどんするべきではないかと思う。 関根勤さんがよく妄想の彼女の話をするが、彼の異常なまでの若さは妄想が支えているのではないかとさえ思ってしまう。 人の思念は、難病さえも克服するのである。 妄想も考えようによってはどんな健康法よりも優れているかもしれない。 要は程度の問題である。 正しい妄想の仕方は、それが妄想と認識しながら、どこまでリアルに考えられるかではないだろうか? 逆にダメな妄想は、自分が今抱えている悩みや、劣等感や、後悔や、孤独感や、悲哀や、絶望などを打ち消すためにする妄想は、相手に依存したり、現実との区別がつかなくなったりしそうなので、やめたほうが良いだろう。 厳しい現実に向かうための薬は、現実にしかないので、妄想では根本的な解決は見られないので、外に出て、色んなものを見て感じたほうが心には良さそうである。 映画「マルホランド・ドライブ」は、妄想と現実が交差する映画である。 デビッド・リンチという人は、映像に妄想を入れるのが、本当に好きな人なので、まあ、いつもの感じかと思って見るのだが、この映画は凄い。 何が凄いって、ちゃんと映画を観ていたにもかかわらず、どうなったかわからないのである。 正確に言うと、起きた出来事はわかるし、何となくこういうことかな?という答えも持ち合わせているのだが、しかし、実際本当は何が起きたのかがわからない。 かといって全般荒唐無稽と言うわけでもない(イレイザーヘッドのような)。 だから鑑賞後あれこれ考え、観た時間よりも映画の内容や起きた出来事のそれぞれの理由なんかを考えたほうが長いくらいだった。 普通の映画に飽きた人や、謎解きが好きな人には最高の映画かもしれない。 妄想と現実が交差する世界で、物語が悲しい方向に進む。 現実が厳しいから、違う世界に逃げこもうとする。 その結末はやはり逃げ出したことによる負い目と、劣等感と、更なる苦しみしかない。 肩の力を抜いて「まあいいか」と口に出してみれば、少しは楽になるんじゃないかなあ。 悪いこともあればいいこともあるよ。きっと。 昼の番組で意気込む若手に「やる気のあるものは去れ」と宣ったタモリさんの名言が、何故か心に響いたりする。
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