クラウドアトラス

監督 ラナ・ウォシャウスキー トム・ティクヴァ アンディ・ウォシャウスキー
出演 トム・ハンクス ハル・ベリー
制作 2012年アメリカ

人の世は今世だけではなく、来世にもつながっているのだろう

(2013年07月30日更新)

  • 前世というものがあって、前世の縁がこの世にもあって、例えば前世で殺し合いをした相手とは今世でも敵だったりするらしい。 前世で愛した人は今世でも惹かれ合い、幾年を越えていつか添い遂げる。 また前世で罪を犯した人は、今世ではその罪を背負い、一生に苦難の道が待っているそうだ。 親の因果が子に巡りではないが、なかなかに執念深いことでご苦労な話である。 この考えはいろんな宗教でも見られるのだが、日本の場合は、やはり仏教に影響されている部分が大きい。 仏教のそもそも論で、人の生は修行であり、修行とは悟りを開いたり涅槃に入ったりするために行うのだが、人は今世だけで悟りを得るのは不可能で、その修行の継続こそが来世の希望となるわけである。 死にたくないから来世があったら怖くないなあ、とか、今世は嫌なことばっかりだけど、次の世にきっといいことがあるさ、とかいうお気楽な希望で存在しているわけではなく、この世にあると思われる因果を信じ、その因果を理解するために欲する希望的世界なのである。 悟りとは何かと問われれば、森羅万象の理を理解することであるので、その因果は言わば理を導き出すための哲学といったところだろうか。 例えば、何かの事故にあった時に、その原因をたどる場合に、「道が危険だった」からか、「自分が不注意だったからか」、はたまた「昨日罪のない虫を殺してしまったからなのか」、「そういう日和だったのか」を考えてみる。 しかし、当然考えてもその答えは存在しない。 答えなどないからである。 しかし、殆どの宗教がそうだと思うのだが、人は苦しみの中からでも、その苦しみの理由を考えようとする。 言わば因果はその答えのないテーゼに対して、修行というアプローチで挑み続ける行為であり、来世の考えは修行の継続ということになるわけである。 しかし、前世というものは、巧みにオカルトを信じる人々の手によってデフォルメされ、例えば事故で亡くなった子どもの住んでいた部屋の間取りや場所などを、全く出会うことがない遠く離れた別の子どもが記憶しているという、よくわからない話に変化してしまう。 そんなものはただの記憶であって、そのメカニズムは脳科学か、心理学か、はたまた手品の世界でやれば良い。 前世は来世に基づくものであり、そもそも科学の世界でも難しい過去の世界を見ることを、ただの人間が見ることができると思う方がどうかしている。 因果律は、人が守るべき倫理などに転化されて、例えば悪いことをすると来世で報いがあるくらいにしておいてもらって、本来の意味合いを理解して、くれぐれも来世に幸せがあるからと、今世に別れを告げるようなことはしないでもらいたい。 人間は死ねば無である。 テーマが重いなあと思いながらここまで書いてみたが、実際にそんなことを考えながら観ていた映画「クラウド・アトラス」を、僕は2回も寝てしまった。 この映画はマトリックスの監督が作ったSF巨編で、テーマは多分因果律だろう。 主人公の一人である、クローン人間の女性はひとつのテーマを観る人に投げかける。 「人は子宮から墓まで多くの人とつながっている。過去や未来において」 物語はその言葉に従い、様々な世界と時間の中で組み合わさり、やがてひとつの形として残されていく。 6つの物語を行き来しながら、やがてこの星の最後の姿を見せていく。 そして、物語の人物は、来世への生まれ変わりを象徴するかのように、同じ俳優が何役も演じている。 ああ、この映画はオカルトなんだ。 しかし、同時にこう思うことがある。 さんざん悪いことをして、己の欲に生きた人間は、いつか捕まって罰が下る。 それで全てが終わりだとすると、人の世で秩序は保てない気がする。 未来永劫つながっていると思うからこそ、人は今の世を大切にしていく。 そのような意味では、人の世は今世だけではなく、来世にもつながっているのだろう。 いずれにしても前世を占って、調子のいいことを言うペテンの輩より、来世の必要な部分を語る科学者や、識者にシンパシーを感じてしまう。
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