飢餓海峡

監督 内田吐夢
出演 三國連太郎  伴淳三郎
制作 1964年日本

昔の映画も矛盾はないかといえばそんなことはないのだろうが、そこは俳優さんの力で、観続けることができたように思う

(2013年04月21日更新)

  • 北野武さんの「アウトレイジ」の続編を観ていて、マル暴の刑事役の小日向さんが、「マル暴の刑事が机に張り付いていてちゃいけないわなあ」とうそぶくシーンがある。 特に暴力団相手の刑事が、机に向かって何ができるんだ、というようなことなのだが、確かに刑事は証拠集めのために、足でその情報を仕入れてくるのが一般的なイメージである。 一方で、最近のプロファイリング捜査は進んでいて、現場に残された物的証拠とかで犯人像を特定することをよく耳にする。 デンゼル・ワシントン主演の映画「ボーン・コレクター」にもその描写が詳しい。 最近ではITが手助けをして、市中そこらじゅうにある監視カメラで、犯行現場と犯行時間から関連するすべての画像を確認し、犯人の特定を行うそうなので、もはや現場に行かなくても犯人逮捕ができる時代が来ているのかもしれない。 先日ある会社から、ボタン操作だけで社員の人格から向いている仕事、キャリアなど、ポートフォリオが自動で作成されるツールの紹介があった。 人事担当がそれを観て人事差配を行えるという事らしいのだが、社員の人となりまでもがデータ化されているようで、少しだけ居心地の悪さを感じた。 そこに人の特性や感情が存在しないように聞こえて嫌悪感を覚えたのだが、逆に言えば、人の個性というものは、いくつかの箇条書きで済まされる時代が来たと言えるのかもしれない。 コンビニで弁当を買って、帰りにDVDを借りただけで、個人の趣味趣向まで悟られる時代なのだから当然といえば当然だが、ビッグデータに支配された社会は、まるで個々各々が何者かに管理されているようで、大変に住みにくさを感じてしまう。 こんな社会だからか、最近の俳優さんはどことなく迫力に欠ける気がする。 もっと言うと綺麗すぎる気がするのである。 もちろん汚いより綺麗に越したことはないのだが、しかし、荒削りさや泥臭さと言った人間臭さがあまり見られない。 特に刑事ものやヤクザもののような、人間の業を扱うものに関しては、迫力が圧倒的に欠けているので、劇場に脚を運んで観てみようとは全く思わない。 昔はよく刑事ものの映画が作られていた。 それは映画の世界に、貧困や人の欲望や見栄と言った、何となくどろりとした粘着性のある物語を観るのを、その当時の人々が好んだからだと思うのだが、最近はそういった粘着性のものが少なく、からっとしていて、自分の生活や考えに照らしてもそこかしらで疑問が起こってしまう。 せめて脚本をしっかり作っていただいて、内容に矛盾が無いようにして欲しいなあとは思うのだが、台詞一つとっても、何となく軽く感じてしまう。 とは言え昔の映画も矛盾はないかといえばそんなことはないのだろうが、そこは俳優さんの力で、観続けることができたように思う。 行ってしまえば、昔の俳優さんの持つ強烈な個性というものが映像の中から溢れていて、その人間臭さゆえに、映画が娯楽として楽しく、もっと臭気のあるものだったような気がするのである。 先日、「飢餓海峡」を借りて観た。 3時間近い長い映画で、内容も結末もしっかり覚えていたのだが、三國さんが亡くなられたので、哀悼の意味を込めて借りて見ることにした。 久しぶりに見た判淳三郎さんの刑事役が、不器用で、それでいて真っ直ぐで、特有の人間臭さを放っていた。 また、三國連太郎さんの、地で行くかのような犯人像は、やはり観る側を吸い込んでいく力を持っている。 僕は白黒時代の他の優秀な映画を観ていていつも思うのだが、現代と昔の映画では、まるで別物のように感じることがある。 もちろんCG技術のような物理的な部分もそうなのだが、映画自体が洋菓子と和菓子くらい違う気がするのである。(分かりにくい?) 特に貧困や欲望などを描いたものは、今の世の中には無い負のバイタリティーで、そういうものを現代の人が生活の中に無い(または少ない)ことで、描く必要性や演じ手がいなくなったように思う。 現代の風潮では、娯楽に人間味はいらないのかもしれない。 しかし、本来人間は負の部分を多く占めているものであり、映画は基本人間の物語なので、当然現代にも同じ話は描かれている。 そして全ての物語が綺麗なものではないはずで、突き詰めて考えてみれば、単純に物語の中にある負の部分の描かれ方が、昔と今で随分と変わってきたと言えるのかもしれない。 端的に表現すると、ビンボー腐く無くなったということだろうか? 現代の負の物語は、社会の理不尽さや物理的な貧しさによる反骨からくるものではなく、個が持つ複雑な劣等感や、孤立する感情といった、精神的な部分にある負に対し物語を色付けするので、演者の迫力は消え、欲にまみれた人間の業は見られず、静かでライトな表現が好まれるのかもしれない。 先日(2013年4月14日)、三國連太郎さんが亡くなられた。 90歳だったそうで、昭和の名優ももうそんな年だったんだなあと、時代の経過を感じて感無量になった。 僕は三國連太郎さんの出演される映画は好きだったので、比較的よく見ている方だと思ったのだが、その生涯の作品群を観て圧倒されてしまった。 三國さんの映画には、常に泥臭さと人間臭さの両面があった。 コミカルであってもシリアスであっても、彼の映画には必ず演じる人物の背景が見れた気がする。 蛍川で見せた父親役も、釣りバカの社長役も、飢餓海峡で演じた犯人の男も、特有の背景が垣間見ることができた。 キャラクターに付与させるその存在感こそが、三國連太郎さんが多くの作品に出続けた理由であり、役者としての業績だったように思うのである。 ご冥福を心よりお祈りいたします。
■広告

にほんブログ村 映画ブログ 映画日記へ

DMMレンタルLinkボタン あらすじLink MovieWalker
 VivaMovie:か行へ