グスコーブドリの伝記

監督 杉井ギサブロー
出演 小栗旬  忽那汐里
制作 2012年日本

生きる上で重要なのは、想像力と感動をする心

(2013年02月15日更新)

  • 子どもに躾を施す時に、特に苦労するなあと思うものに、食事がある。 例えば「残さず食べなさい」とか「食べ物で遊ばない」的な躾なのだが、飽食の時代にあって、どうにも説得力がない。 先日も子ども二人と回転寿司屋に行ったのだが、注文すると新幹線に見立てたトレーがやってきて、僕たちが座っているカウンターの前に止まる。 小さな液晶モニターには注文品のお届けを知らせるイラストがチカチカ点滅する。 皿をカウンターに設置されたダストシューターみたいなものに入れると、何回かの確率でガチャガチャができる。 完全に食べ物で遊んでいるのである。 案の定、子どもは喜んで皿を取るので、食べ残しが発生する。 しかもその食べ残しも1皿100円なので、そんなにたいそれた事をした感が無い。 当然のように子どもにもその感覚は伝播するので、結局「残さず食べなさい」も「食べ物で遊ぶな」も、上空で旋回する鳶のように、回転するばかりで子ども達の心には届かない。 僕は昭和40年後半の生まれなので、どちらかと言うと飽食時代の急先鋒の世代である。 親からも食事についてとやかく躾けられた記憶は無い。 しかし、食べ物を粗末にする人間は、どこかで信用がおけないという所があって、「生きること」と「食べること」は同義語であるという考えがある。 この思想がどこから身に付いたのかは分からないが、今では「食べ物を粗末にする人は、人や物を粗末にする」と、何やら分からない哲学を子ども達に吹き込んでいる。 宗教じみていて、根拠も説明できないが、この考えが健全な魂を育むとどこかで信じている自分があるのである。 話は少し変わるが、江戸時代に「子育てしぐさ」という、丁稚を優秀な商人にするためのマニュアルがあったそうだ。 三つ心  六つ躾(挨拶をするなど)  九つ言葉(相手を慮る)  十二文(時節の挨拶などの文章)  十五理(物事への理解)で末決まる と言うものだそうで、言葉の通り、三歳には心を育てて、六歳には躾をしっかり身につけさせて、という風に三の倍数で教育内容を分けて、段階を踏んで立派な商人にしていくということらしい。 現代にはめると少しペースが早くは感じるのだが、心がないのに躾をしても、それは言葉として記憶されているだけで、本来の躾の内容が理解されないだろうし、躾もないものが言葉をかけることは難しいだろう。 この教育訓は今でも十分に通用はするし、僕は個人的に「心」の育成ができていないことが、現代の物質主義的社会を生んでいるのではないか、と思う時がある。 僕は「食」という基本的な行動で、同時に生きる上で決しておろそかにすることができないこの行為を、より大切に考え、いかにおざなりにしないかが、心を育てる手立てになるのではないかと思っている。 目の前の器に盛られたご飯をどう食べるかだけでも、作ったものへの感謝を感じられるし、食べられない人がこの世にいる(ともすれば隣の国で)ということを考えることもできる。 そのことが食への感謝につながり、人や動物や植物への慈しみになり、心の生育に寄与すると考えるわけである。 前置きが長くなったが、宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」は心の育成につながると考え、子どもたちに見せようとDVDを借りたのだが、観ていてあまりに原作との違いに度肝を抜かれた。 僕の印象では、原作は宮沢賢治の半生の様に、人々が幸せになるために身を挺した美しい物語だったが、映画は神秘性が増し、どちらかというと異世界の、ファンタジーのような印象を残して物語が終わってしまった。 賢治の童話はそもそも神秘性が高いので、映画の仕上がりはある程度止むを得ないものだったのかもしれないが、しかし、子どもに内容が伝わったのかしらんと思って聞いてみると、「おもしろかった」と一応は答えたので、まあええかとは思った。 生きる上で重要なのは、想像力と感動をする心ではないかと思うので、日々の中で触れるものに対し何かを感じられれば十分有意義である。 僕が道を歩いている時に、可愛い女の子に目が行くのも、心にはきっといいので、続けていこうと思う。 オヤジになって色々枯れ始めてくると、心の生育も”性育”に変わってしまう。 生まれてすいません。
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