彼女がその名を知らない鳥たち

監督 白石和彌
出演 蒼井優 阿部サダヲ
制作 2017年 日本

愛の物語

(2018年06月07日更新)

  • 今回は愛についての映画です。 よわい40歳をとうに越してしまったおっさんが愛のことを書くのもどうかとは思うのだが、CCBバリにロマンチックが止まらないので許してください。 何で読んだのか忘れてしまったのだが、映像の中で裸で男性と絡み合うのを皆様に披露するのを生業としている女優さんが、村上春樹さんのことを書いていて、「村上春樹さんは恋愛をきれいに書きすぎている」と言うような趣旨のことをおっしゃっていたのを記憶している。 僕はちょっとだけハルキストなので人並みに村上春樹さんの小説を読んではいるのだが、この意見に何となくだが同調したのを覚えている。 愛を語る時に避けて通ることができないのは性愛であり、且つ性愛は人間の根源である行為のため、この描写なしに愛を語ることは困難だろうということなのだろうが、性を売ることを生業にする女性だけあって本質をついている気がしたからだ。 そんな気持ちで「ノルウェーの森」何かを読んでみると、なかなかどうしてまあまあ性描写もあるので、これ以上の性描写はもはやただのエロなのでは?と思ってしまったりするのだが、しかし彼女の指摘は「愛とは形のないもの」ではなく「愛とは気持ちの良いもの」という言い換えができるようで、至極正直でまっとうな意見だなあと思ってしまい、やはり彼女に軍配を上げたくなってしまうのである。 まったくもって古い話で恐縮なのだが昭和初期に起こった有名な「阿部定」事件というものがある。 今でも情愛の物語としてよく聞く話かもしれないのだが、この事件の壮絶さは愛ゆえに女性が男性を殺害し、しかも女性がその男性の局部を持っていたという猟奇さにある。 詳しい話は僕自身が「愛のコリーダ」を観た程度の知識しかないので、皆様でググっていただければよいのだが、愛情の深さゆえに相手を殺してしまうという、猟奇小説のような話が現実で起きてしまったということは押さえておきたい。 相手を殺して自分も死ぬという「ロミオとジュリエット」のようなイメージにもなりかねないこの話は、愛というもののある種の恐ろしさでもあるのだが、実はこの話はそこまで純粋さだけの話でもない。 そもそもこの話がこんなにも世間的に認知されているのは、殺害した阿部定が服役後に積極的に話し回った結果ということのようだ。 反社会的勢力の方が昔の悪事を武勇伝として話すようなものだろうか? また、興味深いのは、この女性については精神鑑定のようなものを受けてサディズムの傾向があったと言う診断結果を受けている点で、彼女の持つ独占欲のようなものがサディズムと結びついて残忍な犯行に及ばせたという見立てができるわけである。 まあ端的に言ってしまえば肉欲におぼれた女性が、その残忍性と所有欲求から男性を殺害したというだけの事件なのだろうが、描き方を間違えると立派な純愛に話がすり替わってしまうのがこの物語のやや不気味なところでもある。 ちなみにその後5年ほどの刑期を終えた彼女は晴れて無罪放免となり、一般の人と事実婚をすることになるそうだ。 その時の彼女の心に殺害した男への思いがあったのかは本人にならなければわからないのだが、僕自身は彼女が一時の感情で愛した人を殺してしまい、その勘違いを一生かけて背負う羽目になったという数奇な人に写る。 こんなことを言ってしまうと身もふたもないのだが、そもそも一生に一度の愛と結婚した男女も、年間で20万人強も離婚している国なので、愛を語ること自体本当は空々しいのだが、しかしどこかに赤い糸ではないが運命の人がいると思いたい人が多くいるのではないだろうか。 そんな空想家の皆様の心を慰めるためにも、阿部定事件が純愛である必要があるのかもしれない。 僕自身はこの阿部定という、感情の悪魔のような人物が後年自分の犯した罪をペラペラ話したり、嬉々としたかどうかは知らないが、舞台で劇を演じたりしたことを知るとこの人もただの利己的で欺瞞に満ちた愛の持ち主だったのだと思うわけである。 そしてこの世に愛などはないのだろうかと、年に何回か来るユニセフの募金のお願いのダイレクトメールを見ながら嘆いてみたりもするのだが、実際のところ僕自身が愛を持っているかというと、人よりも少ないだろうなあと思い、人のことをとやかく言う立場ではないなあと反省などをしてしまう。 愛の話なのでもう少し書くのだが、気に入りの小説に芥川龍之介の「奉教人の死」という小説がある。 内容をざっくりと書くと、キリスト教徒が女性にみそめられた結果、あらぬ罪で教会を追われてしまう。 しかし信仰に厚く神への信仰を捨てなかった信徒は、長崎の町が大火に襲われた日に、彼の崇高な思いがわかるというお話なのだが、この話の良さがわかってしまうと読んでいない人に悪いので決定的な事は書かないが、この物語の大きな主題の中には深い愛が描かれている。 女性は利己的な愛を持ち、信徒は信仰に根差した全てを包み込む大きな愛を持っている。 無形の愛がこれほど美しく描かれた物語もないとは思うのだが、奉仕する愛というものは、見ている側も胸を詰まらされる。 何故詰まらされるかというと、自分自身がそのような愛を向ける対象があって、その愛を与える気持ちもわかるし、一方で自分はそこまで自己を捨てた愛を施せるのだろうかと思った時に、その勇気や思いの清廉さにグッとくるわけである。 現代に生きていて「死んでしまうかもしれない愛」というものを実感するのもなかなかに難しいのだが、しかし愛を奪われたり愛を失ったりすることはある。 愛を奪われた時に自分はどういう行動を起こすことになるのかを考えると、自分の冷たさに少し辟易してしまうのだが、「愛とは決してあきらめないこと」という使い古しの映画の言葉をどこかで思い出したりするわけである。 先日「三度目の殺人」という映画を観た。ここで描かれる愛は自らの正義のために貫かれた愛だった。 そこに人は人のために生きているということを思い出させられ、また人間の気高さは人との関わりの中で決定づけられると考えさせられた。 そして次に観た映画が「彼女がその名を知らない鳥たち」で、今回の映画エッセイのタイトルである。 主人公の女性は働きもせず、彼氏の家に転がり込んで、日々百貨店に商品クレームを言ったりして暮らしている。 彼女は過去人を愛し、その愛に引きずられて生きている。 一緒にいる男性に対して愛はなく、ただ自分を守ってくれる存在なので一緒にいるだけだった。 ある日彼女は昔愛した彼を思い出させる男性に出会うことになる。やがて二人はひかれあい・・・ と、ここまで書いてしょうもない三文小説のようだと思うのだが、この映画の主題は純愛であり、内容は悲恋の物語である。 現実の愛情というものはどこかエゴイスティックで身勝手さがあってしかるべきなのだが、しかしどこかで相手をひたすらに思う愛というものに期待もしている。 僕はこの年になって、ようやく相手を一番に慮る愛情というものを理解してきたのだが、現実にそういう思いをする時はできれば悲恋で無いほうが良い。 相手を慮る愛情というものを知っていれば、きっと愛の物語は人間の本性ともいうべき性愛を描かなくても現実味があるものになるに違いない。 愛をテーマに人間の本性と人間の理想を描く映画として観ると、なかなかに深い映画でした。
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