完全なるチェックメイト

監督 エドワード・ズウィック
出演 トビー・マグワイア  ピーター・サースガード
制作 2014年 アメリカ

個性や才能を重視することは、同時に孤立や失われるものを知っておく必要がある

(2016年10月29日更新)

  • 勝負師という世界がある。 一般的には将棋指しやばくちを好む人のことを言うが、その破天荒さから古今を問わずそういった人々のエピソードが多数ある。 将棋の世界では小池重明、麻雀では雀鬼桜井章一だろうか。 僕は大阪出身なので阪田三吉なんかは物語としても魅力があり、浪花節的でまあまあ好きなのだが、共通しているのは、超個性的ということだろうか。 いわゆる定石に従わず、我を貫くそのスタイルに、多くの凡人たちはあこがれを抱く。 また勝負師が持つ特有のひりひりした、危なっかしい感じがその魅力を引き立たせる。 天才とは大部分がそうした唯一無二の雰囲気を持っているものなのかもしれない。 僕も若い頃に雀荘に朝までということもあって、勝負をするということは感じたことはあるのだが、いかんせん飽きやすいのと、辛抱が足らないので、いつも肝心なところで負けてしまう。 ひりひりした感覚どころか、友人の麻雀仲間に財布の中身を全部持ってかれて、関係性がピリピリした経験しかない。 少し話が逸れるが、僕は古いタイプの人間なのか、「世界に一つだけの花」という表現が嫌いだ。 人気グループの歌の批判で、且つ同郷の天才作曲家をディスるわけではないのだが、個性というものを重視するのは危険な考えだと思うのである。 僕自身は目立った才能は無いのだが、才能を持っている人というのは確かにいて、そういう人はどこか人と違う雰囲気を持っている。 一言でいうと危なっかしいのである。 個性とはその才能を引き立たせるものだとは思うのだが、難点は多くの社会の仕組みの中において、天才的な才能を見せることができる人は数が少ないと思っているからである。 大部分は個性を見せても、社会の中においては協調性のない、無礼な人間であることを見せているだけのように思うのである。 例えばこんな話がある。 ある才能溢れる技師が40年の月日をかけて研究に研究を重ねて、飛行機を作り出したとする。 晴れて世に自分の功績を公表することができると新聞を開くと、海の向こうの国で同じく飛行機を完成させた兄弟の話を見る。 その瞬間に技師の作り上げてきた飛行機は、ただの真似で終わってしまう。 また、30年の長きに亘り毎日行ってきた印刷加工の仕事で、才能ある職工は誰にもまねできない精緻な印刷技術を身に着ける。 しかし、ある日どこかの工作会社の作った印刷機によって、彼と同じ仕事を誰もができるようになる。 その瞬間に職工の30年の技術は、数日で身につくものとなってしまう。 二人の共通点は、真摯に技術を向上させていった結果、多分彼らは天才だったのだが、その才は別の才能によってつぶれてしまう。 見ようによっては運が悪いだけのように聞こえなくもないが、運に左右される才能というものがそもそも危なっかしいものであることを知る必要がある。 才能があるから成功するのではなく、才能をどうやって社会に合わせて使っていくかということが大事なのである。 実は彼らの才能は、一つのことに集中する才能を持っていて、その才能を社会に合わせて発揮できるものに適応させていれば、おそらく彼らは成功したはずなのである。 例えば昔の映画なんかを観ていると、企業の経理の中には計算を行う仕事と言うものがあったようだ。 計算用紙みたいな専門の用紙に経理上の帳簿をつけたりするのだが、こういった類のものはすべてパソコンにとってかわられた。 写植の仕事も同じくDTP(デスクトップパブリッシング)に取って変わられ、最近ではAI技術の進歩でホワイトカラーの大部分の仕事が失われることが予測されている。 僕のようなプログラマーも職を失う日が来るのかもしれない。 こういった時代において個性や才能といわれても、それは「人と違う何か」くらいなもので、大きな感動や、インパクトのある仕事を成し遂げられるようなものではたぶんないだろう。 逆に言えば、そういうことをなしえる人が才能を有し、個性を十分に発揮できるのであって、決して個性があるから何かを成しえるわけではないのである。 個性というものは生きていれば誰でも持ち得ているものであり、それをいかように社会に適応させていくかを考えていくのが教育であり、社会性なのだと思うわけである。 確かに個性という花を咲かせることに一生懸命になればよいとは思うが、それで社会からあぶれてしまっては、本当にあった才能さえも見つけることができないのではないか、と思うわけである。 勝負師の話に戻ると、勝負師を勝負師足らしめているものは、勝負の才能しかない。 多分勝負師にとっては将棋でも麻雀でも何でもよいのであろう。 勝負師の持つ才能は、勝負することに特化した才能を持ち得ているのだと思う。 才能があるから言動や振る舞いが個性的になり、それは時に横暴だったり、破天荒だったりする。 しかし本当に見なければならないのは、その勝負師がその才能を発揮するためにどれだけ苦しんでいるかということで、そこに物語性があり、同時に弱さがあるのである。 その弱さも見えるからこそ人は才能にあこがれ、才能のある人に羨望のまなざしを送る。 ということで今回の映画紹介は「完全なるチェックメイト」という若きチェスの天才の話である。 15歳にして全米チャンピオンになった実在のアメリカ人天才チェスプレイヤー、ボビー・フィッシャーをモデルに描かれているその物語は、個性を重んじるアメリカにおいても異質さを覚える。 彼は才能に対しあまりにも敬意が無く、且つ精神の幼さを感じてしまう。 才能を重んじるものは、その才能が失われることに対し、真摯に向き合う必要がある。 阪田三吉の「銀は泣いている」という言葉ではないが、才能に対し胡坐をかき、自分を向上させようとしないものは、最期には才能に潰されてしまう。 三吉の銀は、その大きなたくらみの前の餌に過ぎず、その餌に食らいつかなかった相手の力量に対し、銀はただ無駄死にするのを待ち、おびえて泣いていると表現した。 この言葉があるから三吉は棋士として成長をしていくことになる。 個性を持ち得、才能を獲得しても、謙虚さを忘れてはいけない良い例である。 映画の中の彼は常に横柄で、強いものに立ち向かうときにその弱さを露呈する。 この時点ですでに勝負師としての才能は尽きてしまっているのだが、彼はそれでも我を通し続け、自らが才能があるものであることを肯定し続ける。 結果彼は世から忘れ去られ、末路哀れとなる。 非情なのかもしれないが、個性や才能を重視することは、同時に孤立や失われるものを知っておく必要がある。 花は一つで咲くより同じ花を同じ場所で咲かせるほうが断然美しいものである。
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