駆け込み女と駆け出し男

監督 原田眞人
出演 大泉洋 戸田恵梨香 満島ひかり
制作 2015年 日本

縁切り寺

(2016年02月06日更新)

  • 東慶寺は花のお寺として梅や桜の見所もある、鎌倉尼五山に数えられる名刹である。 歴史も古く、鎌倉時代八代執権北条時宗の妻が開山している。 映画の中でも語られるように、その後後醍醐天皇の皇女用堂尼の入山があり、一気に格式を上げ、当世の世でも尼寺では無くなったが現存している。 そもそも縁切り寺とは何なのかを調べると、江戸時代に女性の側からの離婚が困難で、夫との離縁を女性側で達成するために行われた制度らしく、幕府公認としては、映画の舞台となった鎌倉の東慶寺、群馬の満徳寺があったそうだ。 幕府公認というところが意味がわからなかったので調べてみると、徳川秀忠の娘の千姫が絡んでいて、千姫は豊臣秀頼の正室になるが夏の陣で豊臣家が滅ぶと助けられ、満徳寺に入寺する。 その後、豊臣秀頼の娘で後に東慶寺の住持となる天秀尼が処刑されそうになるのを、千姫が助け養女にし、その後天秀尼が徳川家康に願いを請い、縁切り寺としての特権を持ったということらしい。 要は、絶対的な権力を持っていた家康の意向に後世の誰もが逆らえず、明治の初期まで縁切り寺としての特権を保持したということなのだが、疑問はなぜそんな制度が必要だったかである。 江戸時代の婚姻制度は今とはやや違っており、結婚は男性に女性が服するものという意味合いが強かったようだ。 その為離婚の際には「三行半(みくだりはん)」と呼ばれる離縁状が必要で、その離縁状は男性が書くものだった。 つまり、離縁の際に女性は男性の許可がなくては離縁できなかったということである。 そうすると男性は女性と離縁するのは自由だが、女性は不自由ということになってしまう。 女性は別れたいのに、男性が良しとしなければ、女性はいやいやながらもその男性に従わなければならない。 制度としてどうか?と思うのだが、イレギュラー対応の特例措置のような縁切り寺が生まれたと考えられる。 縁切り寺は3年寺で修行をすれば(後に2年。映画でも2年)夫と離縁することができ、それは幕府の名の下で男性に離縁状を書かせることができるということである。 寺に入らずとも離婚できるように法を変えてしまえばよいのにと思うのだが、当時の女性訓は男性を天としてあがめる風潮があり、女性は虐げられる定めにあったということなのかもしれない。 などと昔の男尊女卑批判を書きそうになった所で、さらに調べてみると、江戸時代の離婚率は2パーセント前後はあったという事を知った。 確かに、戦国時代のお姫さまも夫をよく変えている。 旦那が戦争に負けて滅亡とかしたからしょうがないのかもしれないが、でも夫を変えている時点で、女性が必ずしも男性に操を立てる文化でもないようには感じる。 江戸時代の学者である貝原益軒は、「女大学」の中で女性の生き方を示したが、江戸時代は男女間の痴情があまりに奔放なので、女性を凛として生きさせ、男性にも女性を守るための義務を持たせるための教えだったのかもしれない。 因みにちゃんとした集計もできる明治初期には4パーセント台も離婚があったそうなので、結構な離婚率を叩き出しているといえる。 貞女二夫に交えずは、男性の処女思想と一緒で、女性からすればごみくずのような考えだったのかもしれない。 そんな基本を踏まえて観た今回の映画は「駆け込み女と駆け出し男」である。 吉里吉里国を書いた井上ひさしさん原作で、物語の面白さに時間を忘れる映画だった。 映画の中の女性は、家長制度の犠牲でありながら、同時に皆が凛として強かった。 その強さは人間としての強さでもあり、同時に女性が独り江戸の社会の中に身をおくことの厳しさを感じさせられる。 衣食と労働、学習と少しの自由で人は十分に輝くことができる。 自由がない世界では、人は決められた領分でしか輝くことができない。 勇気を持って一歩を踏み出すことが、人を輝かせる道筋を作るというメッセージを、安定した生活や、世間体に縛られた現代の人々の心に響くような映画でした。 少しの自由を手にするために、僕たちはもっと命を費やさなければならないのかもしれない。
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