ゴーン・ガール

監督 デヴィッド・フィンチャー
出演 ベン・アフレック ロザムンド・パイク
制作 2014年アメリカ

世のDV共も彼女を見習って欲しいものである

(2015年04月22日更新)

  • DV(ドメスティック・バイオレンス)被害の女性が、何故あんな夫(または彼氏)と一緒に居たのか尋ねられた時に、「やさしかったから」と答えるケースがある。 女性を殴ってやさしいもへったくれも無いのだが、女性から見れば暴力を振るう彼とやさしい彼は違うということだろうか。 とは言え、正気を失おうが、酒を飲もうが、暴力は暴力である。 DVには段階があり、まずは不満な感情をあらわにするいらいら時期があり、やがてその不満が些細なことから爆発し、暴力を行う時期に至る。 そして最後に自分の行いを悔いて反省するハネムーン期が存在し、女性はこのハネムーン期が本当の彼の人格だと思い込む。 要は鞭をしならせ、やがて打ちつけ、最後に泣いて悔いながら薬を塗ってあげるということだろうか。 もう精神が不安定すぎて最早コントだが、実際のDVの段階はこの3段階を繰り返すそうだ。 DV加害者は、実は優しさなどは持ち合わせてはおらず、寧ろある種の女性は一定期間の暴力と、少しのやさしさで女性が自分の言うことを聞くことを知っていたりする場合もあるそうだ。 このことはストックホルム症候群という、精神医学用語が明確に答えを出している。 簡単に説明すると、犯罪被害者が犯人と長時間過ごすうちに、犯人に対して過度に同情や好意を持つようになるということがある。 これは長時間の監禁や暴力などを受け、死ぬかもしれないという極限状態に陥ったとき、犯人が見せる少しのやさしさで犯人に感謝の念が起きる。 やがて犯人に対し好意的な印象を持ち、最終的には犯人の理解者として、共犯者にまでなってしまう。 DV被害者の中には、極限の状態に追い込まれる、いわばマインドコントロールによって加害者に心まで支配されてしまい、自分自身が殺人事件の加害者にまで至るといったことも起きたりしているので、DVも深刻である。 一方で体を傷つける暴力を振るわないが、言葉や態度による暴力というものもある。 最近ではモラルハラスメントなどという言葉でまとめられてはいるが、要約すると巧みな誘導で相手を支配するというものである。 例えば相手にミスがあった時にそれを責め、自分なしではお前はだめだというようなことを長きに亘り刷り込んでいく。 刷り込まれるほうも、もともと自分に落ち度があるんだから、という気持ちも強いので、どんどん相手に服従していく。 やがて、精神面から全てを相手に依存してしまう。 「私がダメだから彼が私を支えてくれている」 または「私が支えているから彼はやっていけている」 このような感情で相手に依存する共依存を持ってしまうと、相手のことが見えなくなる。 世の中には一定量、女性が居ないとダメな男はいるとは思うが、それは決して抑圧や暴力を伴わないということを、強く述べておきたい。 さて、そんな重たいテーマで何の映画なのかというと、「ゴーン・ガール」というデビッド・フィンチャー監督の秀逸な映画である。 この映画にDVは出ないが、女性は嫉妬から旦那を殺人犯に仕立て上げようとするという、かなりトリッキーな内容である。 主人公の女性はとにかく頭が良くて、夫婦の失業や旦那の浮気に負けずけなげに夫婦生活を続けるが、やがてかいがいしく妻を演じていた自分に対し、夫があまりにもダメ過ぎることに我慢しきれず、夫を自分を殺した犯人に仕立てようとする。 その計画は用意周到に行われ、警察をも欺き、旦那は世間から批判を浴びた末に妻殺しの嫌疑をかけられてしまう。 映画の中の女性は実に暴力的である。 しかし、真に彼女は旦那を愛している。 愛ゆえの嫉妬から相手を刑務所に送ろうとする。 この屈折した感情は、まさしくDVに見る爆発して暴力を振るう時期に似ている。 完膚なきまでに打ち崩した後、旦那は起死回生に逆転を見せる。 その姿に彼女は再び愛を呼び起こし、彼の元に戻ろうとする。 それは彼女の計画が崩れたことを意味するのではなく、旦那への強い愛情を意味する。 屈折した愛の中で、旦那はやがて彼女とは離れられない運命を悟り、絶望ながら少しの愛情を心の中ににじませる。 まさにこの映画はDVも愛の形なのではないかと思うのである。 どうせ暴力を行うのならば、これぐらい完膚なきまでにやるくらいでないと、愛情とはいえない。 世のDV共も彼女を見習って欲しいものである。 なんちゅうオチや。
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