ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~

監督 根岸吉太郎
出演 松たか子 浅野忠信
制作 2010年日本

人非人でも、いいじゃないですか。私たちは、生きてさえすればいいのよ

(2016年10月23日更新)

  • 上方落語に菊江佛壇というものがある。
    あらすじは大阪は船場(大阪の中心業務地区)の商家の若旦那が、お花という嫁をもらうのだが、この若旦那が外に菊江という芸者を囲い、なかなか家に寄り付かない。 それを苦にしてか、お花は病に罹り、実家へ帰ってしまう。 そのお花がいよいよ危ないぞ、というときに放蕩息子のオヤジである大旦那が若旦那に、見舞いに行けというが、若旦那のあまりの不貞ぶりにほとほと参り、大旦那はしぶしぶ自分一人で見舞いに出かける。 厄介払いができたと喜び、菊江の所に出かけようとする若旦那に、番頭が世間体もあるのでと、菊江を店に呼んで、店で茶屋遊びをすれば良いと進める。 実は番頭はこの時、普段からケチで、店のものにもほとんど金を遣わず、自分の信心のみにしか金を遣わない大旦那が居ないのを良いことに、放蕩息子の若旦那のご相伴にあずかろうとするわけである。 それならと店を早仕舞いし、菊江達芸者を呼んで、大騒ぎをしているところに、大旦那が帰ってくる。 慌てた若旦那は、菊江を隠せと大旦那が買った200円もする巨大な仏壇に押し込んで隠れさせる。 大旦那は皆の酔態を見て、怒り呆れるが、お花が死んでしまったこともあり、通夜に行くからと仏壇を開ける。 仏壇を開けると菊江が現れる。 信心深い大旦那はそれを今しがた事切れたお花の幽霊と勘違いし、南無阿弥陀仏、迷わず成仏しておくれとお経を唱える。 それに対して、幽霊の菊江が「私も消えとうございます」とここで追い出しの太鼓。 この話でおもしろいなあと思うのは、旦那に放蕩を注意される時に、自分の放蕩癖は大旦那の信心と一緒だと主張する所で、家に立派な仏壇があるのにもかかわらずわざわざ外の結構なところでお参りをする。 それと一緒で立派な嫁がいても外に出て遊びに行く。これと何が違うんですか?とまあこういう論法である。 若旦那が決定的にかけている感覚は不貞が悪いことである、と言う誰もが知っている(知っている?)事を心底理解していないというである。 それが社会のルールであり、現代人のルールでもあるのだが、この観念を若旦那は持ち合わせない。 ここにシニカルな笑いがあり、人の生き死にさえも、または非人道的な話でさえも、笑いにしてしまう。 落語の表現の強さが発揮されるのは、人間の性というか業の強さがコミカルに描くことができるという点である。 名人米朝落語の菊江の仏壇を楽しみながら、そんなことを考えた。 ヴィヨンの妻は太宰治の作品である。太宰文学の中で、この種の人非人(=クズ)は、ある種の陶酔に包まれている。 それは太宰が、自信をイメージして物語を書き上げているからなのかもしれないが、深読みをすれば、退廃的な生活の中に、太宰自信が美意識を見出しているからではないかとさえ感じる。 太宰のナルシズムは、社会からの脱落にある。 そして社会に認められることへの羨望と、認められない絶望の中に存在する。 ヴィヨンの妻の主人公の男も同じく社会に認められず苦悩し、破滅に向かって生きている。 「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ~」は、とても美しい映画だ。 それは描かれる妻佐知の、切ないまでの夫を信じる心ではない。 クズに対しての、あふれるほどの愛情に、女性の凛とした美しさを感じる。 ヴィヨン(フランスの詩人。高い学識を持ちながら、殺人など罪を犯し、投獄され、放浪の生涯を送ったとされる人物) に見立てた男と、男を支える美しい女性を描いた本作は、女性の凛とした美しさに惹かれた男たちの作った作品なのかもしれない。 そしてその美しさを映画は確実に表現出来ている。映画を観たあとにそんなことを考えました。 「人非人でも、いいじゃないですか。私たちは、生きてさえすればいいのよ。」 このセリフをなんだかどこかで言われてみたいなあ、と思った。
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