フラワーズ

監督 小泉徳宏
出演 蒼井優 鈴木京香 竹内結子 田中麗奈 仲間由紀恵 広末涼子
制作 2010年日本

自分が生まれたこの世界を子にも見てもらいたい

(2012年03月06日更新)

  • 最近では見合い結婚という風習は、完全に廃れてしまったかのように見える。 理由は家長制度の崩壊と、男性と女性との格差がなくなり、男女差がなくなったことにある。 昔は家柄や身分、職業などで結婚相手にふさわしいかどうかを親が決め、それに子が従う風潮があった。 子供たちは家のために生き、その付き合いの幅も大きく制限をされる。 勿論ナンパやコンパなどするはずもない。 そのため、嫁ぐ先の男性の顔も見ずに、他人の家の敷居をまたいで家に入ることなど通常で、相手がド変態であろうと、極端なナルシストでも拒否できず、そんな世界で当然ながら自由恋愛などあろうはずもない。 家長制度は同時に差別や虐待の温床となっていた。 家を中心にする考えはそのまま職業差別や、身分差別を生む。 家長制度の強い所ほど傾向は顕著で、例えば藤村の「破戒」の丑松も、家長制度の強い保守的と言われる信州で、旧弊的な考えを持つ人々により差別を受ける。 また、家長が絶対的な権力を持つ場合は、警察から刑の執行権を付与されていたケースもあったようで、息子を牢獄に入れたり、時には生き死にさえも独断で行うようなケースもあったようだ。 例えば家長がその地域の権力者だったりすると、今ではすっかり死後だが、勘当なんてされようものなら、住むところもなく職も得れないので、泣いて勘当を解いて貰わなければならなくなる。 家を守るためには、民主主義的な過程を踏んでいる暇はなく、それだけ権力の一点集中を行いスピーディーな判断が必要だったのかもしれないが、同時に色々な権利が奪われていたことも、事実として捉えていく必要がある。 見合い結婚は、家長制度の中で家を存続させるための一つの方法で、現代は家のつながりから個人のつながりに変わっていったので、必然として見合い結婚は、結婚相手が探しずらい人たちの出会いの方法程度になってしまっている。 何事も自由であった方が良いとは思うのだが、その奔放さゆえに昔あった人の目を気にする事から生まれた貞淑さや、その他倫理的なルールが崩れてしまった現実は否定できない。、 結果として、芸能人が恥じらいもなく出来ちゃった結婚を発表する世の中になってしまった。 どちらがいいのか僕には分からない。 映画「フラワーズ」は、この家長制度の色濃い昭和11年に、厳格な父の元に生まれた若い女性の結婚から始まる。 彼女は相手も知らず、ただ父の命で父の見込んだ男性との結婚をさせられる。 若い彼女は見知らぬ男に嫁ぐ怖さと、勝手に結婚を決めた父への反発から、装束を来たまま家を飛び出してしまう。 そして話は昭和から平成の別の女性の物語に変わる。 映画に登場する女性たちは、様々な時代の駆け抜け、連綿と続く命のつながりの中で、美しく、そして女性としての強さを見せる。 家長制度から始まった物語は、子を世に送り出すために自らの命を危険にさらす女性に引き継がれ、シングルマザーを決める女性に繋がる。 女性たちは、強くたくましく生き、時に神々しさを見せる。 そして女性は、世の中の流れに唯々諾々、受け入れ、流し、悩み、そしてまた受け入れていく。 その女性たちの強さの前には、男の出る幕など無い。 自分に子どもがおらず、家族を持って居なければ、この映画は感情移入のできない、唯の女優陣が華やかな映画で終わったかもしれない。 しかし、小さな娘を持つ親としてこの物語を見ると、どうしても自分の娘の姿を投影してしまい、その家族を支えるために生きていることを実感として考えてしまう。 物語の核となる連綿と続く生命のリレーを、無事自分がつなぐことができ、そしてそれをまた娘や息子が引き継いでいくと思うと、胸が詰まる思いがする。 劇中で女性が言う。 「私はこの子に世界を見せてあげたいの。私がこの子を生むのを諦めてしまったら、一生今みたいに笑えないと思う。」 子を持つ親の思いはただ、自分が生まれたこの世界を子にも見てもらいたいということだけかもしれない。 それは家長制度の中の親でも、シングルマザーの親であっても、思いは変わらないのではないだろうか。
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