ベロニカは死ぬことにした
監督 堀江慶
出演 真木よう子 イ・ワン
制作 2006年日本
閉塞感のある社会に住む全ての人々のための物語ではないか
(2012年02月13日更新)
- 日本が自殺大国と言われるようになって久しい。 2011年の自殺率の国際比較のデータでは、人口10万人あたりの自殺者数が24人程度もいるそうで、年間では3万人を越えている。 交通事故死が10万人あたり6、7人程度なのでそう考えるとかなりの人が自殺していることになる。 国際的に見ると、ロシアやリトアニアなど政治情勢が不安定な地域で自殺者が多いのはうなずけるが、アジアでは韓国も上位に位置している。 韓国は儒教の国とのことだが、整形する女の子も多いし、自殺も多いということで、必ずしも思想とは一致しないのだが、たぶん色々と複雑なお国柄なのかもしれない。 自殺原因は健康面についての不安が半分近くを占め、後に経済的な理由と続く。 まあ、実際に死ぬ前にその人に聞いたわけではないので、詳しくはわからないのだろうが、これまで自分が生きてきて、いろいろな人を見てきた経験からも、何となくだが理解できる数値ではある。 自殺年齢も50代の初老の男性が多いらしく、確かに病気で仕事もなく、年金ももらっていないのでその日その日の食いぶちを探すような生活を50代で送っていると、何故俺は生きているんだと思ってしまいそうだ。 生きるということは本当にしんどいことだなあと思うと、寝ている間に誰か首絞めてくれないか、なんてことを考えてしまったりもする。 しかし考えてみれば、自殺などをするのは動物では人間くらいで、厳密にいえば与えられた餌を食べないといった自殺行動のようなものを、動物もするのかもしれないが、あくまでそれは間接的な死であって、自ら衝動的に完全に命を経つことが出来るのは人間だけだ。 そもそも動物は死なないための神経反応は脳にそれこそいっぱいあるのだが、死ぬための回路などは持っていない。 自然界の動物は皆、生きるために行動する本能が備わっているもので、例えば、生まれたばかりの哺乳類は火を怖がらないそうだが、高いところに行くと自ずと体が震え、硬直するらしい。 これは、哺乳類は飛ぶことができないため、DNAの中に刷り込まれた、生存本能からくるもので、教えなくても高いところから落ちたら死ぬ、ということを理解しているからである。 転じて、自殺することができるから人間はほかの動物が違うのであるなどと言う人がいるようだが、自殺することで証明される優秀さなどは、ご免被りたい。 個々痛みを抱え、前に進むことができなくなることはあるだろうとは思うのだが、やはり「死ぬことにする」前に「生きることにする」何かを探す努力ができればいいなあとは思う。 「ベロニカは死ぬことにした」は人が死を決断し、再び生きることを希望するためには、生きるということを五感で感じることが必要であることを教えてくれる。 死とはリアルな日常の中にひたひたと音を立てて近づき、弱い自分のどこかに巣くい、気がついたら全て侵食されてしまう、強大なウィルスのようなもので、人の負を栄養に、成長を続ける。 その恐るべき支配から逃れるために、人に触れ、人を愛することが、人を正のエネルギーに導いていく。 推測だが、自殺者の多い国は、ただ自殺原因を取り除くだけではなく、人を正のエネルギーに導く、人としての(あるいは動物として)生活が欠如しているからで、本当の自殺者を減らす社会制度の充実とは、貧困をなくすことや、就労年数の拡大だけでなく、人と触れる機会を増やすことなのではないだろうか。 そういう意味ではこの映画は、精神異常者のサナトリウムという特殊な環境下で話が進むという意味で、この物語はおそらく映画にするべきものではなかったのかも知れない。 どうしても特殊な人々の話のように見えてしまい、しかし実の所、閉塞感のある社会に住む全ての人々のための物語ではないか、と思えてしまう。 僕には自殺願望は毛の先ほどもないのだが、僕はこうやって何かを書く事で負のエネルギーを感じずにいられる。 そして、これからも「僕は生きることにした」人生を歩んで行きたいと思うのである。 余談だがこの映画は日本では真木よう子さんが主演し、アメリカでも映画化されている。 サナトリウムという設定で、若干日本の映画の方が、なんとなくふわふわした感じに見えてしまうが、どちらも原作の世界に忠実な印象を持ちましたが、どちらも何となく原作の上澄みだけを掬っただけの映画という感想を持ってしまう。 映像で死をテーマに扱うのは本当に難しい。
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