脳内ポイズンベリー

監督 佐藤祐市
出演 真木よう子 西島秀俊
制作 2015年 日本

底辺に相手を思う気持ちこそあれば、それは美しい感情へと昇華される

(2016年06月26日更新)

  • 最近の若い人は恋愛をあまりしないらしい。 らしいと書いたのは、僕の周りの人は比較的恋愛を求めているように思うのでらしいと書いたのだが、しかし出生率や結婚年齢の高齢化を考えると、確かに恋愛下手が多くなっているのは本当だろう。 驚いたのは異性と付き合わない理由の一つに、「相手に合わせるのが面倒だから」というものがあるそうで、しかも、そういう人は性的欲求も低いため、性交渉にも興味が無いということだそうだ。 倫理観や、社会意識が薄いため、新人類と言われた僕たち世代だが、これが本当ならば今の世代は、動物の本能さえも捨ててしまった脱人類だといえる。 そんな中、芸能界では不倫が流行している。 流行と書くと語弊があるので、言い換えると不倫が横行している。(こっちのほうが語弊があるか・・) 僕の勝手なイメージだと、ちょっと権力のある古巣の男性俳優なんかが、新人女優を捕まえて、「僕はあの映画の監督をよく知っているんだ。」 なんてことを言って、映画に出してあげるから一晩だけと、脂ぎった顔を近づけて手籠めにしてしまうのが芸能界なので、不倫くらいで今更そんなに驚くことではないのだが、思っていたイメージと違うのが、さわやかさが売りのタレントさんやアイドルなんかが、不倫をしてしまったりする。 不倫の5股なんてことを聞いたりすると、もはや股という言葉もいやらしさを通り越して、なんだか外来語の一種のように思えてしまう。 日本人の倫理観はいずこへ、などと嘆き節も聞こえてきそうだが、不倫は文化という名言があったように、古今問わず昔からお盛んであったようだ。 例えば江戸落語に風呂敷というものがある。 話をかいつまむと長屋住まいの女房が、旦那のいない間に間男を家に招き入れ、しっぽりやっている。 そこへ亭主が帰ってきて、玄関口で大いびきで寝てしまうので、間男を逃すことができない。 参った女房は、たまたま来た鳶頭に頼み込んで、旦那を外に連れ出してもらい、話巧みに顔に風呂敷をかけてもらう。 その隙に間男は逃げ出すという、内容はシンプルに尽きるのだが、この話の中に不倫の背徳感は無い。 女房は不倫で旦那が怒るのを嫌がっているだけだし、鳶頭はそんなに抵抗なく間男を逃がすのに協力をする。 なんだか、不倫が日常のように描かれているのである。 江戸時代のほうが不倫に対しての罰は厳しく、さらしものにされたり、時には斬首などの刑事罰もあったのだが、倫理的にはそこまで不倫に対して罪悪感は無いように感じられなくもない。 成熟した社会では法によって規律を作るので、不倫はいかんわけなのだが、江戸時代のように奔放さは無いにせよ、人間の本質として不倫をしてしまうのはやむを得ないのかもしれない。 そもそも男女が一緒にいれば、そのような感情が生まれることは否定できないし、そもそもなぜ不倫がいかんのかがよくわからない部分もある。 何言ってんの、こいつ馬鹿じゃね?と思う方も多いのかもしれないが、そもそも結婚というものは常識という曖昧模糊としたものがベースに作られた契約であり、その契約の条文に「結婚したらその人だけですよ」と誰かが書いたから、不倫はダメなのだろう。 しかしそれはあくまで社会の規律を守るためであり、人間の性としてよりすぐれた異性とつながりたいと考えるのは当然なので、よくわからない規律なんぞを無視してしまえばいろんな方とお知り合いになりたいと思うのは普通である。 それが人間の業なのでせっせと浮気をしてしまうからこそ、結婚の契約にわざわざ「不倫はしちゃいやん」と書いているのである。 であれば逆にその条文を不要と考えて結婚することがあっても良いわけで、取り立てて世の中すべてが不倫が悪いとするものでもない気がするのである。 同時に婚姻中の風俗は許すという奥様もいるそうだが、むしろこちらのほうが不健全で、なんだか違う気がする。 愛情と性欲は別と考えているから、このような考え方が起きるのであって、男性もそんなことで解消される思いであれば、我慢ぐらいしろと思うわけである。 性欲と愛情はやはり同一線上にあるべきだと思うので、性処理をプロに頼むということ自体がなんだかゆがんだ感情を生み出す気がするのである。 僕は性欲の吐け口としての不倫は「馬鹿じゃないの?」だが、どうしても生まれ出てしまう恋愛感情には、ある意味「仕方がない」部分があると思っている。 むしろ男性は恋愛をするから若さと知性をキープできるような気がするし、女性もいつまでも艶やかにいられるのではないか? 正に「男と交際しない女は次第に色あせ、女と交際しない男は次第に阿呆になる」ものである。 しかし、ここまで不倫を肯定することを書いているが、少し理解が欲しいのは、愛というものを人間はもう少し慎重に見たほうが良いとは思っているということである。 例えば、先の若者のように、付き合うのが面倒くさいという感情がある時点で、愛は備わっていないと思うのである。 愛を考える上で、いろんな大事なものを一度俎上に出して、その上で愛が勝る時にこそ、僕は不倫という選択肢もあると思うのであって、そこを非難することは、人間を非難することではないかなあ、と思うのである。 しかし、自らの抱え持つものと比べて愛を見なければ、ただの本能で動く動物と同じである。 すべてを壊してまで得なければいけない愛なのかを考えてから不倫をするのであれば、それはそれで実にすがすがしいなあ、と思うのは僕だけだろうか? ということで、愛について書いてみようと思ったが、世の中の流れに合わせて不倫について書いてしまったのだが、今回は奥手な女子の恋愛映画、「脳内ポイズンベリー」です。 人を愛することでいろんな感情が左右し、揺れ動く気持ちをコミカルに描くポップな映画です。 好きになるという当たり前の感情に、いつもの自分ではなくなったり、多くのことに思いを巡らせたりする。 それを脳内の擬人化した感情によって、彼女の意思が決まり行動が変わる。 純粋な気持ちを、いつも癖のある女性役の多い真木よう子さんが可愛く演じられ、少しの違和感はあるものの、新鮮な感じのする楽しい映画ではありました。 恋愛は他人を思い、自分というものがあらわになる。 見えてきた自分の中にエゴイスティックな部分や、幼稚性や、被虐性があっても、底辺に相手を思う気持ちこそあれば、それは美しい感情へと昇華される。 いろんな感情があったとしても、濁りのない美しい上澄みの部分こそが純粋な愛情であり、こういった感情や思いがないものは、僕は恋愛ではないと思う。 不倫だろうが、5股だろうが、たぶん汚れたものには愛以外の何かがたぶん隠れている。 言い換えれば、嘘や打算や、妬みなどが愛以外の何かであり、そういったものが愛情をはるかに上回った時に特有の腐臭がして、どうにも鼻をつまみたくなるのかもしれない。 不倫という愛の形には、そういった腐臭がするからいかんのかもしれない。
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