フォレスト・ガンプ

監督 ロバート・ゼメキス
出演 トム・ハンクス サリー・フィールド
制作 1994年アメリカ

才能とはそういった意味で、努力とひたむきさの上に成り立ち、それを成し得ることが出来る人に授かる、神様からのギフトなのかもしれない

(2012年01月01日更新)

  • 映画「レインマン」のモデルと言われるキム・ピーク氏は、映画の通りに本で見たものを、ページ毎にそのまま一言一句間違えずに覚えており、彼はそれだけの頭脳を持ちながら、服装も父親に手伝ってもらえないと着ることもできないそうだ。 彼は、サヴァン症候群という病気で、この病は知的障害や高度の自閉症を持ちながら、普通の人では及びもしない才能を、芸術や音楽などで発揮するという特異なものである。 最近よく耳にする「アスペルガー症候群」も、一見人と違う面があり、社交性が著しく無い人間が実は秘めた才能を持つことが多い、という研究結果が出ているようだ。 「アスペルガー症候群」については関係書物やネットでも多く説明があるので詳しくはそちらを参照してもらいたいのだが、この病気の症例を簡単に言うと、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズのような所謂天才と言われる人たちに見られる、社会性の希薄さや、常識はずれな部分(例えばジョブズは、大事な商談にもジーパンにTシャツという出で立ちで行ったそうです。)も、欠陥がある分一つの分野では画期的な発見をしたり、類い稀な集中力を見せる、というようなものである。 内容を知るほど、クラスに何人か居そうな感じがして、あれ?私もあてはまるんじゃない?なんてことを思ってしまう。 特に名前も「アスペルガー」って何となく必殺技っぽいので、「私もアスペルガー症候群で、ひょっとしたら人より優れた才能があるのかも」などと思うのはちょっとおめでたい。 しかし、サヴァンは何だか遠いけど、アスペルガーは近いかも、と思った人も、間違いとまでは言わないが、これはあくまでも症例なので、ただの人見知りとか、非常識な馬鹿ものとは一緒にしてはいけない。 人は通常欠損部分を認めて、それを修正するようにしていくのだが、例えば周りの大人がこどもの非常識を正さずに生活を送らせたり、非常識を直さなくても良い環境にある場合に、唯の我儘として大人になっていくケースがある。 特にアスペルガー症候群の話でよく出てくる人物として、エジソンの学校中退の話しがあるのだが、エジソンは明らかにアスペルガー症候群としての症例を持っており、学校から「欠損児」の烙印が押されたほどの極端なまでの授業妨害は、こどもながらの探求心からくるもので、その後彼に自ら教育を与えた母親は、彼のために本を与え、物を与えて彼の探究心を伸ばしていくわけである。 しかし、これだけの探究心を持っている時点で人とは違うし、学校を辞めさせて自分で教えた母親がいる時点で、少し常識とは外れている。 欠陥というには抵抗があるし、才能というにはあまりにも不安定な感じがする。 つまり、このようなアスペルガー症候群の成功はいずれも結果論で、本来は社交性の著しくない、不安定な人で終わってしまう場合が多いだろうし、ただ金と祖父からの代の会社での権力があったために、100億以上も会社の金を無駄に使うようなどこかの3代目のような非常識な人間は、断じてアスペルガーではない。 何度も言うが本来人は欠陥部分を認めて修正するもので、その修正が努力をしてもできなかった人々全般がアスペルガーである、という解釈であれば、この病気は何も「人と違うことが才能である」という風潮とは異なり、やはり統合失調症などの精神的な病と一緒だと認識するべきである。 愚者こそは聖人のように美しいとよく言われるし、一握りの天才がこの世界を作っていったこともおおまか否定はしないのだが、人と違うことが素晴らしいという風潮は、やっぱり同意がしにくい。 この風潮は自由と自分勝手を助長させて行く気がしてならない。 映画「フォレストガンプ」は僕の主張する自由と自分勝手の違いをはっきりと見せてくれる。 ガンプは知能障害こそあれ、何事も一生懸命で、人と違うからこそ努力もするし、才能も発揮する。 何よりもガンプは社会との関わりを持ち続けたし、純粋さとひたむきさでその社会での成功を収める。 僕はスティーブ・ジョブズもエジソンもきっと同じような純粋さもあったと思うし、社会と関わる大切さは理解していただろうと思う。 才能とはそういった意味で、努力とひたむきさの上に成り立ち、それを成し得ることが出来る人に授かる、神様からのギフトなのかもしれない。
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