淵に立つ

監督 深田晃司
出演 浅野忠信 古舘寛治 筒井真理子
制作 2016年 日本=フランス

罪の意識を持ちながら生きるという事はしんどそうである

(2020年05月09日更新)

  • コロナの影響もあって(今は2020年5月)家にいることが多く、ソファーから動かない生活が続く。 たまに体を動かしに散歩に行くが、世の中の風潮もあって遠出もできず、人の多い店舗にも入りづらいので、結局数分うろついて帰ることになる。 家に帰るとゲームをしたり本を読んだりしているが、我が家の奥方は大層働き者なので、常に何かをやっている。 何か手伝おうかなあと思うのだが体が言うことを効かぬ。 なんだか悪いなあという気持ちだけはあるのだが、まあ今度世の中が通常営業になったらどこか連れていくかと、未定の予定で帳尻合わせを考える。 きっと世の中の男はこういう気持ちをステイホームで感じているのだろう。 流石にある程度の年齢なので、休みが増えて無邪気に楽しむこともないので、自らの所在なさを解消するためにも、コロナには早く去って行ってもらいたいものである。 自宅待機が多いからという訳ではないが、自分の書斎を片付けていたら、いつぞやに送られてきたユニセフの募金のお願いがファイルボックスから見つかった。 以前は年に一度ほど募金をしたりしていたので、今でも通知がやってくるのだが、最近はどうにも忘れてしまう。 世界に愛を施す小さな手さえも出すことができない自分を恥じ入るばかりなのだが、財布の事情と相談すると、申し訳なくダストボックスにポイしてしまった。 生きることは毎日小さな罪悪感で満ちている。 「1つの罪悪は100の善行によって償われる」と言ったのはドストエフスキーだったか。 人を殺害しても殺して得た金で寄付でもすればチャラという考え方で、自身の募金行為も奥様への感謝も、たぶん帳尻合わせなのかもしれない。 誰しも人が見ていないところでも罪悪感というものはあるもので、それが溜まってくると何かで弁償していきたいと考える。 ドストエフスキーの小説「罪と罰」では、主人公は罪悪感で苦しむことになる。 つまり一つの罪が100の善行で打ち消すことはできない。 罪は必ず後悔を産み、例え善行で打ち消せたとしても後悔だけが残り続ける。 という訳で今回のテーマはまさに罪と罰の映画「淵に立つ」である。 物語は殺人の罪で服役した浅野忠信演じる男が友人の工場で世話になるところから始まる。 白いシャツに丁寧な口調。男はまるで大きな罪を犯した雰囲気がない。 その内に友人の家族も彼を気に入るが、その後大きな事件へと発展する。 男によって幸せな家族は傷つけられる。 しかし、傷つけられた夫婦はそれぞれに罪悪感を持っている。 男はそれを知っているかのように、またその罪悪感を打ち消すための所業のように夫婦を不幸に陥れる。 結果夫はそれを試練と感じ、罪悪感から解放された気持ちになり、妻は後悔の中で日々を送る。 救いがない話である。 罪の意識を持ちながら生きるという事はしんどそうである。 幸い永遠も半ばを過ぎて、人生を折り返している自分は、罪悪感を持つような生き方はしていないようで、胸が苦しいほどの思いをしたことは無い。 少なくとも家の手伝いをやらないくらいで胸が締め付けられる罪悪感を持つことは無いとは思うので、何となく一生この映画の人々の気持ちはわからないかもしれない。 波風立たない人生というということなのだろうが、それはそれでどうなんだろう。 まあいいか。平和が一番だし。 すいません。こんなオチで。
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