バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)

監督 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
出演 マイケル・キートン エドワード・ノートン
制作 2014年 アメリカ

大掛かりな自虐映画

(2015年09月23日更新)

  • こんなジョークがある。 「君は何かというと金のことを口にするが、世の中には金で買えないものがある。君を信じる純真な友は金では買えないだろう」 それに対し、男は答える。 「確かに金では買えないが売るのは簡単だね」 これの何が面白いのだろうか?と思うのだが、調べたわけではないがアメリカ人にはまあまあのジョークらしい。 とは言え日本人の笑いもたいしたことないのかもしれないのだが、世界中で配信されるyoutubeでは、日本のお笑い芸人のリズム芸がなかなか反響らしく、クールジャパンはサブカルチャー全般で、世界を席巻しているようだ。 笑いというものは結構難しくて、その人の生きていた環境や背景などがあって初めて笑いになることが多く、同時に笑いとは差別や区別などの、反社会的なものに根ざした場合もあるため、何を持って笑いとするかが相手に依存されるので、答えがあるようでないところが難しい。 例えば日本特有の笑いの手法で、つっこみというものがあって、実際に人の頭を小突いたりすることで起きる笑いがあるのだが、お隣の韓国では人を殴るという行為自体よくないことなので、突っ込みに対して笑いは起きにくい。 アメリカでも下ネタなんかは受けないと聞く。 大阪のNGKを見に行くと適度に下ネタを言う芸人もいるようなので、笑いの王国が届ける笑いも場所によっては通じないという事かもしれない。 やはりそのコミューンでの文化というものが笑いには関係しているのだろう。 笑いをもう少し掘り下げて、今度はジョークとユーモアという言葉を考えてみる。 僕が考えるにジョークは駄洒落に近く、ユーモアは知識を伴う洗練されたものというところだろうか。 例えばこんなユーモアがある。 「この前友達がブッシュが馬鹿だといったら警察に捕まったんだ」 「そりゃひどい!罪状はなんだったんだい」 「国家機密漏洩だって」 本来はロシアのフルシチョフ政権時代にはやったものらしいのだが、大統領の悪口を言って、国家機密漏洩というところにシニカルな笑いが隠れている。 ジョークとは違った知性を感じないだろうか? しかし、これって日本人の僕からすると、感心はするが笑いにはならない。 笑わずに拍手をしてしまいそうである。 一方ジョークは、大半が駄洒落に近いので、こちらも愛想笑いしか僕は出せない。 例えば昔よくパロディー映画というものがあった。 有名な映画のパロディーで笑いにするという映画なのだが、当然ながらパロディ映画で笑うためには、題材にした映画を観ていることが必須となる。 同じように、例で書いたユーモアも、ブッシュ自体を理解していなければ、笑いにはならない。 そういった意味で、ユーモアは相手の知識に依存する部分もあって、知らない人にとっては理解されず、せいぜい愛想笑いしか出ないわけである。 そもそも笑いというものには閉鎖性がある。 内輪笑いというものがそれにあたり、小さなグループだけに分かる笑いと言うものが存在する。 何かでも書いたが、例えば学生時代のクラスの中で作られた笑いは、別のクラスでは理解できなかったりする。 その笑いは万人受けしないという意味では面白くはないのかもしれないが、知識や経験を共通とするコミュニティーでは絶対的に面白いものになる。 つまり笑いには共通の経験や知識を与えることで、面白くなったりするのである。 アメリカンジョークもずっと見続けていけばそのうちに面白くなるのかもしれない。 そういう意味で細分化された笑いを全て包括するような、共通のものを作り出すのは難しい。 また笑いは他の文化と違って、鮮度が結構短いので、今は面白くても時代が経てば、どこで笑うのかさえ分からなくなってしまう。 コメディ映画が名作として残りにくいのも、この鮮度の問題が大きいのかもしれない。 ということで、お笑い論から始まる今回の映画紹介は「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」である。 バスター・キートンに憧れてマイケル・キートンと名づけた名優の、大掛かりな自虐映画である。 物語は昔「バードマン」という映画で一斉を風靡した俳優が、落ちぶれて再度舞台で再起を図るというもので、内容はシリアスだが、随所にシニカルな笑いがちりばめられている。 バスター・キートンといえば無声映画の時代にチャップリンと並ぶ名優だが、映画の中で決して笑わず、悲しげな表情で笑いを作り上げていたことで有名で、この映画もそういった、悲哀が本編にはある。 主人公は時代に取り残されて、本当の演技力もなく、周りは問題が溢れている。 その中で主人公の男は、この世から消えようとすることで、再起を見出す。 逆説的に映画の世界を描くニヒリズムに、実際のマイケル・キートンの復活を見ることができるが、日本人の僕にはその笑いは分からない。 もっと言うと、落ちぶれることもできない人生を送ってきた僕には、この笑いが何の笑いなのかさえも分からない。 悲しみや、不安や怒りのような、人間が本来持つ負の感情さえも飲み込んで、笑いというものは生まれる。 知識や区別、そして文化という、社会性を伴うものを利用して、笑いは花を咲かせる。 笑うという単純なことを考えてみても、なかなかに奥が深いものである。 余談ですが、「バットマン」が本当に「バードマン」というタイトルだったら、漫画も映画もヒットしてないような気がするのは僕だけでしょうか?
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