パルプ・フィクション

監督 クエンティン・タランティーノ
出演 ジョン・トラヴォルタ サミュエル・L・ジャクソン ユマ・サーマン
制作 1994年アメリカ

映画は娯楽か芸術か?

(2015年01月19日更新)

  • このエッセイもやっと100本目を迎えることができた。 100本目で何について書こうかと考えてみたが、かねてから思っていた「映画は娯楽か芸術か?」ということについて書こうと思い、芸術至上主義的な考えを否定したいので、今回は娯楽映画としての評価の高い、「パルプ・フィクション」を取り上げようと思う。 昔大学生だった頃、友達と面白い映画についての話になって、こんな会話を交わしたのを覚えている。 友達「時計じかけのオレンジってどう?」 僕「面白いけど何が言いたい映画かわからん」 友達「内容なんかないやろう。ただ見てエロい気持ちにでもなったらええんちゃうん」 僕「・・・」 そもそものことを言ってしまうが、他人の夢の話と観た映画の話ほどつまらないものはない。 夢は荒唐無稽で、映画は他人によって感想が違う。 そんなことを知りつつも、こんなエッセイを書いている身なのだが、映画評で最もつまらないなあと思うのは、映画に対する芸術論云々である。 正直どちらでも良い。 何でどちらでも良いかというと、僕自身が芸術というものがよくわからないからである。 わからないから、映画は芸術でなくてはならないと言われても、ピンと来ないのである。 だから、もし僕に映画は芸術か否かと聞いてきたら、どちらでもないと答えてしまうだろう。 正確に言うと芸術でも良いし、娯楽でも良い。 楽しければ良いのではないか?と言うことを、冒頭の友達の会話で得たので、正直そんな定義付けはどうでも良いという考えが僕にはある。 一方で、少しは芸術性を持ってくれたらいいのに、と思うような本当にどうしよもない映画というものがある。 特に映画の本場アメリカでは、低予算で作られる映画が多くあるので、ただオッパイとゾンビを出しとけばいいやみたいな映画がごまんとあって、しかもそんなポリシーだから内容は荒唐無稽で、本編がもれなくバカバカしいものがある。 観ていても本当に時間の無駄なのだが、無駄とわかっていながらもそんな映画も時に観たくなったりする。 何が言いたいのかと言えば、何も映画の全てが、考えさせられて、人生の肥やしになる必要はないのではないか?と思うわけである。 映画を作る側に技術も金も哲学もなくて、ただ自分が面白いと思うものを撮っているという映画も、時には傑作を生むこともあるかもしれない。 たとえ傑作ではないにせよ、観る側はそれを自分の中で評するくらいにしておいて、わざわざ「つまんないですよ」と喧伝する必要なんかなくて、そっと自分の中で消化しておけば良いのであって、これもそもそもを言ってしまうのだが、人に批評された映画を観ても、大体は的はずれに感じてしまうのではないかなあ、などと思うわけである。 なぜなら映画は感性で見るものだからで、感性は多分人によって違うだろうから、自身の価値観を見せられても、どう言えば良いのかわからない感じになってしまう。 要は映画が芸術だと思う人は、そういう映画だけ観てれば良いわけで、芸術性がないからこの映画はダメ、みたいな話は、どこかずれているように思うのである。 映画に何を求めるかは、観る側がそれを決めれば良いのであって、映画はこうあるべきと定義をしてしまうこと自体が、映画をつまらなくしてしまうのではないかと思うわけである。 因みに僕は美しい女性の裸に芸術性を感じるので、もし映画が芸術性を感じるために観るものであれば、常にAVを鑑賞をしなければならなくなってしまう。 それはそれでいいかなとも思うのだが、やっぱり物語のあるものもちゃんと見たいなあ、とは思うのである。 という前置きを踏まえた上で、賛否の評価が分かれる「パルプ・フィクション」についてである。 言わずと知れたタランティーノの監督作品で、かなりの話題作となり、カンヌも取っている優れた作品である。 映画の特徴としては、緻密に計算されたストーリー展開と、印象深いクールなセリフ回しが有名である。 しかし、この映画での会話は、フライドポテトにケチャップでなくマヨネーズを付ける話だの、アムステルダムではマリファナは合法だの、クールというかどうでも良い会話が多い。 どちらかというと、殺し屋という生業の男たちが、ゴルゴのようにクールに人を殺すのではなく、街のチンピラよろしく、くだらないことに関心を持っていて、しかし、仕事はクールにこなすそのギャップにあるのかもしれない。 また、多分ここは観た人に異論はないとは思うのだが、キャラクターの立ち方が、それはもう半端ない。 見たら一発で記憶に残るキャラクターが多く出てくる。 この映画で表舞台への復活をしたジョン・トラボルタは、殺し屋で、ツイストを踊るシーンがとても格好が良い。 ユマ・サーマンのトリッキーっぷりや、聖書を引用するサミュエル・L・ジャクソンの堅物感など、実にキャラクターが立っている。 これらキャラクターは漫画的で、今までの映画には無かったインパクトが随所に散りばめられている。 映画の物語も良い意味で不親切な部分も多く、観たものに違和感を残すような画像があり、解釈については当時いろいろな意見が出て割れていた。 有名なところでは、トラボルタ演じる殺し屋が打たれるアパートの壁に、既に銃弾の跡があったり、全般出てくるにもかかわらず分からないスーツケースの中身や、実在しないタバコの銘柄が本編に出てきたり、物語以外にも楽しめる部分がある。 こういったカルト的な部分を盛り込むことで、コアなファンを呼び込むのかもしれない。 「パルプ・フィクション」が楽しめるのは、一部のファンが鑑賞後に再度楽しめるような部分を敢えて残し、映画で全てを語らない手法によって物語に憶測を呼び込む。 そうすることで、映画に内容以外の付加価値を付け、想像するという映画の楽しみ方を提示する。 こういった付加価値の付け方自体が、現代のオタク文化へ繋がる前兆だったように思うわけである。 この映画が封切られていた時、もし友達に「この映画は何を言いたいかわからん」と言われたらこう答えるだろう。 「ただ、映画見てトラボルタのツイストでも真似てたらええんちゃう?」 意味があるものしかない世の中もつまらないものである。
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