悪の法則

監督 リドリー・スコット
出演 マイケル・ファスベンダー キャメロン・ディアス
制作 2013年アメリカ

浜の真砂は尽きても、世に悪人の種は尽きないもの

(2014年10月10日更新)

  • 営業の頃にある地方都市を車で走っていて、ああこのあたりは平和そうだなあ、悪い奴なんていないんだろうなあと思っていたのに、後日拳銃の発砲事件があったりして、大変驚いたというようなことがあった。 当たり前のことだが、良い街か悪い街かなんてものは、住んでもいない人間がわかるわけはないのだが、それでもやっぱり綺麗に整理された街なんかでは、犯罪は少ないイメージを持ってしまう。 僕は大阪の淀川区生まれで、昔からある古い歓楽街の近くで20年以上過ごしたせいか、新興住宅街のような、街全体が整備されて、新しい建物が多い場所に行くと、なんとなく気後れしてしまう。 特に覚えているのが、学生時代に兵庫県の宝塚市出身のご息女とお付き合いさせていただいていた時に、お住まいの界隈のその街並みの美しさに、完全に気圧されている自分がいたのを覚えている。 卑屈な言い方をすると、僕みたいな、ドブ板の裏をひっくり返したような男が、こんな立派な家の女性と付き合っていいものだろうか、なんてことを一瞬だが思ってしまったのである。 逆に言えばそれだけ人を身なりや、雰囲気で判断していると言えなくもないのだが、こういったことは僕だけではなく、人間であれば誰しもが持っている感情のようで、ビジネスの現場でも高身長の人は、低身長の人よりも収入が高いなんてことをよく聞くし、このエッセイにもよく書いているように、人は情報を得るときに、相手の見た目で9割を判断し、話す内容などはあまり重要ではないことは有名な話である。 例のような外観による判断というものは生活の中でも見受けられ、例えば昔大阪に多かった自転車の路上駐車も(今は少ないんですかね?)、最初は一台の放置自転車をそのままにしておいたことで、次々に人が自転車を停めるようになって、気づけば路上が自転車で溢れる、ということになるようで、「こんな所停めちゃあだめですよ」などと指摘すると、「私だけちゃうやん。皆停めてるやん」ということになるわけである。 社会学では「ブロークンウィンドウ現象」というそうで、例えばある街の路上に車を放置しておく。 決して高い車ではないが、一台は普通に駐車をした車で、もう一台はフロントガラスに目立つヒビを入れておく。 そうすると不思議と窓ガラスにヒビを入れた方は、タイヤは盗まれ窓ガラスは割られ、車内には石が投げ込まれ、オーディオ機器何か盗まれてしまい、あっという間に廃車に追い込まれてしまう。 車にヒビがある時点で心理として誰かの所有物ではないという考えが働くからだそうで、街全体が汚れた街では犯罪率が高いというデータがこの現象を裏付けている。 とは言え、どんな街にも、雰囲気に左右されない悪い人というのはいるので、きれいにしていれば良いというわけではない。 浜の真砂は尽きても、世に悪人の種は尽きないものである。 話は少し変わって、昔はよく渡世人を見かけた。 日本は世界から見ても変わっていて、「私は犯罪組織の一員ですよ」という肩書きで活動を行う組織が堂々とあるのは、日本くらいで、例えばマフィア何かは、マフィアのファミリーの住む家の表札に「○○地区マフィア連絡会」みたいなものが出ている訳もなく、誰がその構成員かはわからない場合も多い。 考えてみれば、犯罪組織が看板を掲げて、「僕たち悪いことする集団ですよ」とうたっているのは異常と言える。 暴力団を取り締まる法律ができた時も、ヤクザが裏社会に紛れてしまうから、という理由で法律に反対する警察関係者もいたというから、いかに日本が反社会的組織を受け入れていたかが分かる。 ここからは持論だが、日本人はどこかで農耕民族的要素が高く、力で人を支配する人たちに対し、何となく敬意を持っているような所があって、同時に公権力に対し反抗することにどこかあこがれを抱いている節を感じてしまう。 例えば田舎では村の実力者が、独自の刑の執行権を持っていたりするし、勘当なんて制度も、言ってみれば力のある人間が弱い人間を従わせるための人権侵害に他ならない。 しかし、そんな理不尽さも、どこかで受け入れてしまう従順さが日本人の多くが持っているような気がする。 そういった国民性もあって、日本人の描く悪の中にも、いくばくかの人間味のようなものや、時に正義感みたいなものが垣間見られたりする。 例えばヤクザ映画でも有名な「仁義なき戦い」で描かれる世界は、殺す殺さないの、まさに「悪」の世界なのだが、その中に義理の世界や、信念のようなものを見ることができ、また命をかけた緊迫感のようなものを感じたりする。 この映画が作られた時代は、悪の中にヒーローがいたことが見受けられ、「グッドフェローズ」や「ゴッドファーザー」で描かれる世界は、生への執着や、義を通す思想など、それなりに悪の描き方に悲哀があった。 しかし時代とともに悪の形は少しずつ変わり、最近描かれる悪には、ある種の残虐性と猟奇性だけしかなく、悪の中にヒーローが存在しないものが多くなった。 悪の中には欲だけが描かれており、その欲を得るための行為が描かれていることが多い気がする。 「凶悪」という映画を最近観たのだが、とにかくピエール瀧さんの役柄が相当に悪い。 「凶悪」で描かれる悪は、わがままさや、残虐さのみで、悪の理由や意味みたいなものには一切触れることはない。 ただ淡々と悪の行為が描かれている。 北野武さんの「アウトレイジ」何かも、とにかくまともではない。 このまともではない悪意こそが本来の悪が持つ本質であることは間違いはないのだが、しかし、こうもストレートに描かれてしまうとなんとなくだが、ホラー映画を見ている時と同じ、派手なシーンで引きつけているだけのチャチさを感じざるを得ない。 テーマが大きかったので何だか話が長くなってしまったが、久しぶりに書き上げたこのエッセイは数ヶ月前に観た映画、「悪の法則」である。 この映画を観たときに昔のヒーロー性を持った悪と、残虐性を伴った欲に支配された悪の両方が住み分けられた映画だと感じた。 要は残虐性を伴った悪の行為が、まるでヒーローであるかのような印象を持ってしまう。 昔は悪の中に大義や、人を殺さなければならない悲哀のようなものを同時に描かれていたものだが、この映画のように、残虐性こそが格好いいと錯覚しかねない描き方が随所に感じられてしまう。 ある猟奇的な殺人者が犯行の動機を聞かれて、「人を殺すことに憧れていた」などと言ったと報道された事件などもあったが、この感性と似たものを持っている映画だと感じた。 そう言った意味では「アウトレイジ」よりタチが悪く、「凶悪」よりもやや獏として感じられる。 しかし、それが現代というものなのかもしれない。 僕は基本的に悪い人が出る映画は嫌いな方ではない。 内容も別段勧善懲悪でなくても、最後に悪が栄える映画でもそんなに気分を害したりはしない。 しかし、ただ悪意だけが占めている映画は、鑑賞後にどこか寂しい感じがしてしまう。 できれば悪意は人に向けられない方が良いし、できれば高い知能で人を凌駕して自らの欲を達成するような、そんな悪を観たいなあと思う。 僕の理想は「ルパン三世」の不二子ちゃんのような悪で、高い知性で金持ちを出し抜き、欲のためにルパンを裏切っても、最後はルパンのもとに帰っていくような、そんな微笑ましい(?)悪が好みではある。 キャメロン・ディアスは不二子ちゃんに近づけているのか? この映画を観て判断して欲しい。
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