エクソダス:神と王

監督 リドリー・スコット
出演 クリスチャン・ベイル ジョエル・エドガートン ベン・キングズレー
制作 2014年 アメリカ

歴史が歪曲する最大の理由は、人が都合よく捻じ曲げてしまうこと

(2015年07月18日更新)

  • 史実というものは大げさである。 例えば南京大虐殺という聞くからに恐ろしい歴史的出来事があるのだが、そもそも大虐殺があったのかどうかを考えるとこのページごときでは足りなくなるので別でググッて貰うと良いのだが、中国にある南京大虐殺記念館には(この名前も凄いですが・・・)30万人の市民が犠牲になったと書かれているのでまさに大虐殺である。 しかしこの事件に物言いをつけている識者は多い。 例えばこの30万人の数字なのだが、南京戦で向けられた日本の兵力は、松井石根大将率いる中支那方面軍を中心に7万人程度だったそうで、単純計算して1人で4人を虐殺してやっと達成できるかどうかという数字である。 もちろん戦時下の事なので誤って市民への攻撃はあったとは思われるのだが、市民虐殺となると話は変わってくる。 戦闘で30万人だと、まあ分からなくはないが(それでもかなり大規模な戦いだったとは思われるが)、市民虐殺なので少なくとも南京に30万の市民がいなくてはならない。 事件のあった1937年12月より半年以上前ではあるが、1937年3月の南京市民は100万人いたと言われているが、戦火が近づくにつれ南京から脱出したものなどもいたので、南京城陥落時に安全区(戦争を行わない場所)にいた人数は25万人程度だったと言われている。 全員虐殺してもなかなか難しそうな数字である。 因みに南京陥落の翌年1938年5月の南京の人口は27.7万人いたとの事で、虐殺のあった場所の人口が増えているらしい。 これが何を表しているのかは言わずもがなの気がしないでもない。 では何故南京でこんな虐殺が行われたとされているのか? これは南京占領から5日後の1937年12月18日に、ニューヨークタイムズに「南京の街路は、女子供を含む民間人の死体で満ちていた」という記事が掲載されたことを論拠に、多くの写真や証言をせっせと集めてひとつの事実に仕立て上げたという背景がある。 その全てに対して「嘘である」と断じるのは大変難しいが、しかし大部分は虚偽であることが立証されており、そもそものニューヨークタイムズの記事も中国人などに聞いた伝聞で書かれたもので、別に現地に赴いて集めた情報という訳でもない。 当時の中国の戦略による情報操作の部分が多くあったように思う。 戦争というものは何も武器を持って戦うだけではない。 どうやって相手を貶めるかも戦争の一つである。 「歴史は勝者が作るもの」という言葉があるが、何も勝者に限ったことではないので厳密に言うとこの言葉は間違いである。 「歴史は意図して作られるもの」が正解で、ひょっとしたら100年後は沖縄も、日本が中国から不当に摂取した何て歴史に変わっているのかもしれない。 歴史というものは宣伝に利用され、よく知らなければ人を操る手段として使われることがあることを覚えていく必要がある。 例えば日本は外国に一度も占領されたことが無いという事実を根拠に、日本は無謀な戦争を仕掛けてしまったという見方がある。 日本は神の国なので窮地に立つと、風が吹いて戦況も変わるとかいうあれである。 その根拠となるのは所謂2度に亘る元寇で、日本が暴風雨によってあの強かったモンゴル帝国を跳ね除けた史実に基づいている。 しかし、いくら台風が多い日本とは言え、モンゴルも馬鹿じゃないので台風ぐらいは避けるし、台風の日にわざわざ海戦も無いだろう。 元寇はもっと単純な話で、戦争に借り出された当時モンゴルの支配下の高麗の人々が、モンゴルに抵抗したか、またはやっつけ仕事で強度の低い舟を作ったか分からないが、天災だけではなく人災の部分もなかったかと思う。 どのこととは敢えて書かないが、今も天災をきっかけにした人災は過分にある。 いわんや中世をや、である。 しかし、元寇は何となく日本がモンゴルを追っ払ったんですよでは、何だか座り心地がよくない。 できれば華々しく勝ちたいものである。 日本が神風に守られているほうが、何か凄い感じががする。 じゃあ、と元寇を広告として利用したのが、この神風思想ではなかろうか。 いずれにしても歴史が歪曲される理由は時代の為政者の都合であり、特に常識の範疇を超えているようなもの(神風が吹いたなど)は、まず間違いなく人の手が加わっていることを疑うほうが良い。 という前置きで書くと、ものすごい語弊があるが、今回は「エクソダス:神と王」というモーセを扱った映画である。 モーセといえば「十戒」のあの海われのシーンを想像するが、昔の映画のような迫力に飛んだものは無い。 紅海を渡るシーンは、表現が抑え目な潮の満ち干きで表現されている。 とは言え映画の題材でもある出エジプト記自体、結構おかしな部分が目立つ。 まずエジプトを出たイスラエル人の数が60万とされているが、エジプトの当時の人口が数百万人はいないと数字的に帳尻が合わない。 おそらく宗教的な意味合いで事実を捻じ曲げているのだろうが、まるでどこかの国の人たちとやり口は一緒である。 本当に出エジプト記が史実だったとしても、せいぜい数千くらいの数ではないかと考えられる。 映画の中でもイスラエルの民は、神からの災厄から逃れるため、子羊の血を家の門扉に塗るシーンがあるが、もし60万ならば世帯分の子羊がいることも驚きだし、そもそもエジプトの人口が60万人も減って、良く経済が保てたものだと考えてしまうわけである。 そういった多くの疑問に対し、リドリー・スコットは精一杯の現実的解釈を凝らしているので、その辺は違和感無く楽しめるのではないかと思う。 特に海が再び大地を飲み込むシーンは、理屈より雰囲気を重んじる人気監督ならではの描写があり、なかなか楽しめる。 物語が周知のものなので必然的に描写はかなり大げさなのが、その中でも独自の解釈や視点を入れて作り上げていることが、やり手監督の手腕を楽しむことができる醍醐味ではないだろうか。 独特な宗教的配慮や歴史的な疑問も大切だと思うが、単純に娯楽として楽しめる映画なので、あまり考えずに見ることをお勧めしたい。
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