アーティスト

監督 ミシェル・アザナヴィシウス
出演 ジャン・デュジャルダン ベレニス・ベジョ
制作 2011年フランス

新しいものへの拒絶ではなく、ひとつの道を追求したものの真に純粋な行動だった

(2014年10月10日更新)

  • 頑固一徹のおっさんが、料理屋の厨房で我が物に立ち、少しでも気に入らないことがあると、 「お客さん。悪いが出てってもらえねえかい」 何て凄みを効かせて、注文もそこそこに客を追い出してしまう。 無論店の壁の短冊には、商品名は書いてあるが値段なんて無い。 気取った店だが職人気質が受けて、何人かのファンが通ったりしてそれなりに繁盛はしていたのだろう。 今もそういう店はあるのだろうが、あまり聞かなくなった。 不景気も影響しているのだろう。 そんなことをしていたら客が寄り付かないのかもしれない。 僕はこう言う職人気質の人に対して、一部では認めているが、一部ではどうかと思う部分も多くある。 本当に道を極めた(または極めようとしている)職人が、いちいち客の相手をして愛想よくする必要もないとは思うのだが、であれば客の前に立たなければいいのであって、客の前に立つ以上は愛想よくしないと折角の腕が泣いてしまう。 とは言え愛想だけ良くて味もそこそこというのに比べれば幾分かマシではないかとは思う。 学生の時に働いていた居酒屋で、焼き物の厨房にいたおっさんが困った職人タイプで、兎に角すぐにキレる。 いつもムスッとしているくせに、町の居酒屋なので厨房が丸見えで、カウンターに座ろうものなら、必然的におっさんが前にいるので、その仏頂面を前に酒を飲まねばならない。 しかも味もそんなに大したことはない。 だけど自分は中国に修行に行ったとかでしたり顔で、まあまあの豚足スープをオリジナルだと言って振舞ったりする。 本当にタチが悪いものである。 最近もテレビを見ていて、芸人がつかう「素人」という言葉に違和感を感じた。 客が「素人」だから当然「玄人」がいるのだろうが、「玄人」であるならば何のプロなのか。 決まった客層での舞台で、安定した受けを取れるのが「玄人」なのか、それともテレビで、沢山の番組作りのプロに支えられながら、まあまあ面白いことを言える彼らが「玄人」なのだろうか。 わざわざそんな言葉をつかって、自分を何か特別な芸を披露しているように見せることにあまり良い感情を持たない。 どんなことをしてでも笑わせることを生業とする「芸人」が、人を見下すような発言をしてしまってはマイナスがあるだけのように感じるのだが、それは僕がおっさんになって感性がだらけたからなのだろうか? そう言った意味で「芸」という言葉自体に、軽さを感じる気がするのは、やはりビジュアル時代の現代の風潮だからなのかもしれない。 とは言え、最近大きなテレビイベントで優勝をしたコント師は、苦節十何年もバイトで生計を立ててコントに打ち込んできたと言うし、少し世間に認知されたある芸人なんかも、テレビに出ている今でもひと月に1本のネタを書くといった話しを聞くと、職人を感じ「玄人」を感じ、応援したくなるのは僕だけだろうか? 多分だが、大方の人がただのチンドン屋の賑やか師に飽きが来て、少し本物を見たくなってきているのではないだろうか。 芸術の分野における職人は「アーティスト」と呼ばれる。 持論ではあるが、アーティストの必要要素は、作品における薀蓄ではないかと思っている。 大体普通の人が理解できるものは、その道を極めた人であればたいしたものではないだろうし、それこそ同業にしかわからないすごいものを作っても認められにくい。 その作品における芸術的意図を散りばめれば、何となく「ああ、いいもんだな」と思うもので、そういう作品の説明書的なものがなければ、アーティストの仕事は自己満足で終わりかねない。 悪意があるように聞こえるかもしれないが、けなしたいわけではなく、ほとんどの人はその作品の芸術性について、四六時中考えているわけではなく、感性でいい悪いを区別するものなので、感性に訴え掛けるには、それなりの情報も入れておく必要があるということである。 コーラの瓶が芸術的に優れているといわれても「ほう」くらいだが、女性の体をデザインしていると言われると「確かに」と、加えられた情報により、何となくその芸術性に気づかされることはあるだろう。 別にコーラの瓶が女性の体だからどうしたではあるのだが、若者が飲む飲み物だと言うことを考えると、何となく良さげに感じる。 この「何となく」が芸術には大切なのである。 昔、映画はサイレントだった。 サイレント全盛の頃は何せ話せないので講談師のような人が説明をしたり、役者がオーバーな身振りで動くことで、その場面を明確に表現をしていた。 トーキー(有声映画)に変わった頃、役者たちはその表現方法に戸惑い、一度は役者を続けるか悩んだことだろう。 チャップリンのようにトーキー時代でも、サイレントの「街の灯」をヒットさせる実力があれば良いが、そもそもそんな才能は稀である。 役者にとってトーキーの出現は表現方法の拡大で、言わば革命である。 革命が起これば古い体制は死に絶えるのが常である。 多くの役者たちが自らの演技を殺して次に進み、新し文化が創り出されたのだと思うと、大変面白い時代だと思うし、ワクワクする時代だったように想像してしまう。 映画「アーティスト」は、トーキーの出現によって死に絶えるサイレント映画のスターの物語である。 滅び行く古い文化は、焼き捨てられ、その残骸の中で彼も死に絶えそうになるが、ひとつの光が彼を救う。 それは彼がサイレント世界の中で見出した、トーキーの世界で大きな才能を見せたひとりの女性だった。 その女性の輝くばかりの個性に引かれ、彼はもう一度トーキーの舞台の中で輝きを取り戻そうとする。 言葉を発することなく、サイレントの世界の中で培った表現力と、タップとリズミカルな踊りの中で、彼はトーキーとサイレントを融合させることで、生き返ろうとするのである。 映画はアーティストのタイトル通りに、サイレント映画に対し、真摯に打ち込み最後まで曲げようとしなかった男の、職人たる素晴らしさを持っていた。 それは新しいものへの拒絶ではなく、ひとつの道を追求したものの真に純粋な行動だったのかもしれない。 街中で面白いことを言おうとする人を「素人」と呼ぶのであれば、「玄人」らしい真摯な芸を見せてもらいたいものである。 賑やか師の戯言には、皆がそろそろ飽きがきている。
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