女と女と井戸の中

監督 サマンサ・ラング
出演 パメラ・ラーブ ミランダ・オットー
制作 1997年オーストラリア

不器用な生き方だが、こうして生きていくしかできなかった、女性の悲哀に映る

(2012年10月07日更新)

  • 大学生の頃に知り合った男の子で、バイセクシャルの子がいた。 太った男の子が好きらしくて、僕が少し酒の飲みすぎで太り始めた頃、「これ以上太ったら、僕のデブレーダーに引っかかるで」と脅かされた。 阪急梅田駅のホモの出る出没地区などを聞かされたりして、まあ楽しい子だった。 女性でも同じくバイの女の人で、この人は普段は明るくていい人なのだが、たまに落ちるとめんどくさい人がいた。 バイト先で知り合った程度だったので詳しい事はあまり知らないのだが、落ちるとリストカットに挑戦するチャレンジ精神溢れる方で、確かに僕が彼女に出会った夏場でも、長袖を着て仕事をしていたのを覚えている。 彼女がバイだったのかは彼女がそう言っていたのでそうなのだろうが、普通とは違う精神の人なのは、見た目からも分かった。 こういった人を僕は長く、少し欠けた人だと思っていた。 考えてみると、人や社会に合わせていくことが普通なのかと言われればそれも時として異常ではあるのだが、しかしそうする事で生きやすくて喜びに満ちた人生を送れるというのに、何も無理して茨の道を歩む必要なんてないのではないか、とも思っていた。 実際に人生で出会ったこの二人は、少なくとも仕事面や学業の面で、僕には欠けた人格に見えていたのも、そう思った理由の一つと言える。 もともと、僕自身もどこか欠けた人格を持っているような気をしていたので、そう思いながらも彼らのことは嫌いでは無かったが、しかし、人間としてストレートな付き合いだったかと言われれば、どこかに偏見のようなものを持って接していたのではないかと思うと、それはおそらく持っていただろう。 今はこう言った人を見ても、欠けているとは思うのかもしれないが、偏見のある接し方はしないとは思う。 最近になって考えが変わってきたのは、そうして社会にあわせて生きてきた人間が、どこかで無理をした結果、自らの命を絶ったり、また個を殺して真摯に仕事に打ち込んだ人が、無残にリストラの憂き目を見たりする姿を見ていく内に、自分が何を喜びとするかが最も大切なのではないかと考えるようになってきたからである。 僕たちは常に社会から自分を見ている。 勿論それはちっとも悪いことではないのだろうが、世の中には社会から自分を見るだけではダメな人もいるのである。 僕自身も自分というものをもう少しよく見ることで、結果自分が女性になりたい願望があったり、男性しか愛せなかったりするのであれば、これは欠けているのではなく、自分を見つめた結果として仕方がないことなのかもしれない。 自分が黄色人種に生まれたことを嘆いても始まらないように、それが自分を形成する一つの構成なのであれば、それは甘んじなければならない。 僕のように社会から自分を見ることに慣れた人間は、それができない(またはしない)人に対して、どこか欠けた印象を持つ。 それはある意味では正しいのかもしれないが、長い人生の中では、それは時に正しくない。 僕はこの先に自分の歩んだ道に満足できるのか?と問われた時、胸を張って、「はい」と答える自信がない。 僕はそれだけ、自分というものに対して興味を持ったこともなければ、考えたことが無いような気がするのである。 その鈍感さが、自分を知ろうとした人々に対して、欠けていると思わせているのかもしれないと思うと、それは僕の浅薄さであって、差別心であって、ただの無知でしかない。 しかし、現実僕はどうやって自分を見つめていけばいいのかがわからない。 40年も生きてきたのにね。 最近同性愛地味ていて、先週は「シングルマン」を観て、今週は「女と女と井戸の中」を観た。 この映画を観るのはどうやら二回目で、途中からラストシーンを思い出して、ああしまったなあと思った。 この映画のラストは難解である。 女の子は、年増のおばさんを愛していたのか、それとも金のための芝居だったのか、そう言った、物語のある種核の部分が不明のまま、ラストを迎えるのである。 それは若い自由な考え方故なのか、僕には少し理解できない部分はあった。 女は最後には車も失ったのか、荒涼とした一本道を歩いている所を、自分の土地を買い取った男の嫁の車に乗る。 その車の中は女の子供で溢れている。 自分も同じように男性を愛していれば、この女のような生活を送っていたのだろうか。 カーステレオからは、自分の愛する古い音楽が流れる。 若い彼女が嫌う古い音楽が。 この映画には社会からの目線が描かれていない。 年増の主人公は、ある種動物的に、自分の本能のままに人生を過ごす。 それは自分が持つ唯一の楽しかった思い出に縛られているかのように見える。 昔この映画のラストを観たときは、田舎のアホの年増女性の話にしか見えなかった。 しかし、今は不器用な生き方だが、こうして生きていくしかできなかった、女性の悲哀に映る。 社会の縮図としてこの映画を観るといたたまれないが、精神の物語としてこの女性を観ると、生き方を変えられなかった真っ直ぐさに悲しみを感じる。 映画も、捉え方や自らの重ねた時間によって印象が代わるものである。
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