アデル、ブルーは熱い色

監督 アブデラティフ・ケシシュ
出演 レア・セドゥ アデル・エグザルコプロス
制作 2013年フランス

寧ろいろんな受け皿があるからこそ、自然はおおらかに全てを抱え込むことができるのである

(2015年03月04日更新)

  • 昨今の科学技術の進歩はすごいなあと思うのだが、エジプトのミイラをCTスキャンをかけることで、ミイラの死因や性別がわかるそうだ。 例えば呪いで有名なツタンカーメン王なんかは、杖なしでは歩けなかったそうで、かなりのO脚が進行していたとのことで、生まれながらの病気だった可能性がある。 また、ある歌い手のミイラの死因を調べると、動脈硬化だとわかったそうで、この歌い手は肥満気味で、毎日晩餐に呼ばれ、贅沢な品を食べるうちに、痛風にでもなってしまったのかもしれない。 中でも特に驚いたのは、ある踊り子のミイラを調べてみると女装した男だったそうで、紀元前の世界から、性の不一致問題があったということだ。 性については昔の方が今より倫理的におおらかだったと考えられるので、男性が女性らしく生きることも、今よりは楽だったのかもしれない。 いずれにしても死んでまでその素性を詳らかにされるというのも、なんだかいたたまれない話ではあるが、昔だからといって今の人々とは違うと考えると大間違いだということなのかもしれない。 日本でも戦国時代の小姓は、仕えた武将の夜のお勤めも果たしていたらしいので、同性愛についてはそんなに違和感なく受け入れることはできる。 寧ろ既成概念に囚われた現代人の方が、異性を愛することにこだわりすぎているのかもしれないなあ、とストレートな僕も思ってしまったりする。 動物の世界でもペンギンなんかは、オス同士で暮らすというようなことはよくあることで、同性の性交渉に至ってはキリンやサルなどでも見られるというので、まあまあ驚きではある。 人間の場合、こういった性の多様性を、L(レズビアン)、G(ゲイ)、B(バイセクシュアル)、T(トランスジェンダー)と区分けしている。 どこかにも書いたが差別は区分けから生まれるのであまり言い方にこだわるべきではないのだが、同性しか愛せない人や性同一性障害の人は何となく理解はできるのだが、バイセクシャルだけは、果てしないいやらしさしか感じないのは僕だけだろうか? まあ、僕の低俗な想像は置いといて、愛するという行動だけ考えたときに、相手が異性だろうが同性だろうが、直感的に惹かれてしまうものは抑えようがないのはわからなくは無い。 倫理の垣根を超えて、且つ自然というものを考えるときに、全てが子孫を残すための行動である必要はなく、寧ろ進化というものが違いから発展することを考えれば、自然な気がするのである。 つまり愛の形もそれぞれであって良いのではないかと、思うわけである。 そんなわけで、今回の映画は「アデル、ブルーは熱い色」である。 アデルは女性ながら毎日の生活で、自分が人とは違う何かを感じていた。 そんな中街中で出会ったブルーの髪をした女性エマに直感的な何かを感じ、やがて彼女に抱かれる夢を見る。 少しずつ自分がセクシャル・マイノリティではないかと感じ始める中、アデルはエマと再会し、恋に落ちる。 物語は純粋な恋愛を描き、且つフランス映画らしい情熱に満ちた映画である。 愛するほどに相手の肌を求め、触れ合うことを熱望する。 こういった描写は、まず日本の映画では出てこない。 日本で愛を描くとき、どうしても猟奇性や、性愛が先に来てしまうのだが、海外、特に欧米はこの辺の描き方が実にスムーズだと思うのは、見た目の違いなのだろうか? せつないほどの愛を感じ、映画自身がセックス・マイノリティの話であることを忘れかけてしまう。 この話を書く際に、ネットで調べていると、「同性に惹かれたことがあるか?」という質問に対し、3%位の人が「ある」と答えたというようなデータがあるという記述を見かけた。 要は30人に一人くらいの割合でセックス・マイノリティがいる可能性があるということなので、言ってみればクラスに1人はいる計算になる。 そう言われてみればあいつはそうだったかも、と思い返す自分もあるが、実は気づいていないだけで自分自身もセックス・マイノリティなのかもしれない。 そう考えると、この映画の世界も、偏見なしで純粋な恋愛映画として見ることができるかもしれない。 でも男同士のはあまり見たくはないですが・・・。(すいません)
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