悪人

監督 李相日
出演 妻夫木聡 深津絵里
制作 2010年日本

傾城の恋は誠の恋にあらず 金持ってこいが本当のこい

(2012年01月01日更新)

  • 世の中には出会い系サイトというものがある。 最初は無料で登録をするとポイントが貰え、そのポイントでメールのやりとりを開始する。 開始してすぐに知らない女性(または男性)からメールが大量に来て、その中の一人となんとなくやりとりを始めると、どこかで会いたいなどと言ってくる。 じゃあと話が具体的になった頃に、ポイントが切れ、この先は有料で続けるようメッセージが表示される。 それと同時に相手はとてもその気になりそうな言動で揺さぶりをかけてくる。 そしてお金を払ってポイントを購入するとテンションが変わり、今度は会う日をいつにするかのメールを何回かに分けて引き伸ばしたりしてくる。 仕組みだけを簡単に言えば、キャバクラと同じシステムである。(キャバクラ1回しか行ったことないけど・・・) さも自分のことを好いてくれているそぶりを見せて、近づくとそっけない素振りを見せる。 これを繰り返すことでお預け状態の客はお金を落とし店と女の子は潤うわけである。 よくよく考えて見れば、金が欲しくてやっているのだから、好きになることなく相手を好きにさせるための行動を取るのは当然と言えば当然で、やられている方は分かりそうなものなのだが、どこかに「いや、こいつはどこかで俺のことを好きに違いない」と思ってしまうところがなんとも憎らしいわけです。 僕も高校生の時に通学路に同じ電車の車両によく乗り合わせていたOL風のお姉様に、2回たまたま目が合っただけで、少し好きになった経験があるので、この心理は全くわからないわけではない。 今でも女の子が自分を見て少しうつむいたりしただけでもときめいてしまう所がある。 おめでたいというかさみしい習性です。 しかしキャバクラにはそこに行けば女の子がいて、楽しい会話をするという意味で実態はあるが(嘘かもしれないが)出会い系には実態はない。 出会い系の向こう側には、23歳OLを名乗る大学生の息子がいるリストラサラリーマンかもしれないし、休日は絵を習いに行っていますとのたまうパンク女かもしれない。(別にパンクの人が絵を習ってはいけないと言っているわけではない。念のため) そこに実態はなく、ふわふわとしたイメージと美辞麗句の文章の中に、浅黒い欲望が寂しげに浮いているだけなのだ。 出会い系にはまりお金をつぎ込む人は、純粋でさみしい人なのかもしれない。 世の中にはさみしい人が沢山いて、社会の中で居場所を見つけられずネットの世界に居場所を求めたりする。 怪しい世界に惹かれ、そして時には優しい言葉を貰い、時には辱められても、そこに本当の自分の場所があるような気がする。 怪しげなサイトの向こう側には、そんなさみしい人がウロウロと道に迷っていて、なんだか切なささえ感じてしまう。 「悪人」はそのタイトル通り悪人が出てきて、だけど本当に悪人なのだろうかという逆説的な締めで終わる。 「悪人」の現代語訳は「心のよくない人」とある。 人を殺した主人公だが、彼が何故人を殺したのかを考える時に、観る人は彼は「心のよくない人」であると紋切り型に切り捨てることができるのだろうか?という質問を映画を観る人に投げかける。 僕が思うこの映画の肝は、何故深津絵里が出会い系サイトで知り合った男に抱かれ、問答無用に連れ従い愛を与えたのかにある。 もちろん妻夫木が男前だからでも深津絵里が男に飢えていたからでも無く、この社会にさみしい女性が内在的にいて、悪人にならざるを得ない環境の男性が今も苦しんで生きているかもしれないことが、この映画の本質にあるように感じた。 傾城の恋は誠の恋にあらず。金持ってこいが本当のこい。 いずれにしても平々凡々と暮らす僕たちにとっての恋とは、金のかかるものなのかもしれない。
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