鹿苑寺  ジャイ子

同じ名前の子がいたらいじめられるかもしれない

(2018年09月21日更新)

  • 娘に突然国木田独歩について聞かれたので「武蔵野」を書いた人だよと、文学史に載っている情報を伝えると、次に中島敦を聞いてくる。 何で聞いてくるのかを聞くと、どうやらアニメに出てくる名前のようで、何でそんな文豪ばっかり出てくるのかと尋ねると、「文豪ストレイドッグス」とかいうなんでも文豪をキャラクター化したアニメだそうだ。 冗談で「太宰治の必殺技は人間失格か?」と茶化すと本当にそうらしくて、昔の文学作品が必殺技名というその感性に、自分が若くないことを実感してしまった。 森鴎外なら「舞姫」とか「高瀬舟」なのでまあまあ必殺技っぽいが(そうか?)、田山花袋なら「蒲団」なのでもっちゃりしていてなんかヤである。 僕がまだ子供だった頃のアニメと言えば、主人公の名前はそれなりにインパクトがあったようには思うのだが、しかし別段普通の名前が多かった印象だ。 巨人の星…星飛雄馬 ややスカした感じだが熱血な感じは伝わってくる アタックNO1…鮎原こずえ まあ、普通 仮面ライダー…本郷猛 まあ、普通 エースをねらえ…岡ひろみ うん、普通 ドラえもん…野比のび太 いじられるよね あしたのジョー…矢吹丈 格好いい ドカベン…山田太郎 鈴木一郎並みのどこにでもいる感が素敵 書き出すときりがないのだが、全体的には普通の名前が多い気がする。 しかし驚くべきはもう30年以上前の作品なのに、名前を憶えている事である。 自分の中学校の時の担任の先生の名前はおろか顔さえもびた一文覚えていないのに、何故見てもいないアニメの主人公の名前を記憶しているのだろうか? こうやって書いてみるとわかるのだが、アニメの主人公はまあまあ字ずらが良いように思う。 何と言うのだろうか、そのアニメの世界観を思い浮かべるときに、この名前の字ずらが実にすんなりと来るのである。 もちろん何十年もたっているからそう思うだけなのかもしれないのだが、しかし名前の力というものもそれなりにあるような気がしてならない。 一方でインパクトだけの名前も存在する。 何のキャラだったか忘れたのだが、あしゅら男爵なんていうのや、ルパン三世のマモーなんてのは、いったん聞いたらなかなか忘れそうにない名前である。 昔の漫画はルールがなかったためか、名前の付け方も個性が爆発していて、特にギャグマンガは「チビ太」だの「ブタゴリラ」だの、悪意しか感じないあだ名や名前がまかり通っていたのも、こういったインパクトを重視する考えからだったのかもしれない。 その中でも秀逸なのは「天才バカボン」で主人公の名前はバカボンのパパである。 そもそもバカボンありきの名前であり、しかもバカボンっていう名前もとんでもない。 しかし、こういった名前は時代を超えて今ではあまり見られなくなった。 コンプライアンスの時代だからと言えばそれまでだが、背景にいじめの問題がある。 僕もおぼえがあるのだが、例えば学生時代のパシリ(学生のヒエラルキーが低く便利に使われる人。使いっパシリ)のあだ名はもれなくロデム(バビル二世に出てくる)だった。 アニメキャラのインパクトを子ども心に敏感に感じ取り、不適切にいじめに使われてしまった例でもあり、それだけ名前の力というものが大きかったという証明なのかもしれないが、いずれにせよ不適切な名前は昔よりは少なくなったように思う。 良いことなのか悪いことなのかはわからないが、少なくとも住みにくい世の中だとは思うわけである。 結局は間違いが起こる可能性のあるものにふたをしてしまっても、根本が変わらない限り、別の方法で悪しき行いは行われるわけであって、アニメのキャラクターにつけられた名前のせいではないのである。 例えばドラえもんのキャラクターにジャイ子という子がいる。 この子はいじめっ子のジャイアンという男の子の妹で、器量はあまりよくなく性格はおしとやかで漫画家を目指している。 兄とは正反対の性格だが、兄に似て思い込みが激しい一面があったりする。 いわゆるどこにでもいる普通の女の子である。 唯一普通と違うのはジャイ子という名前である。 ドラえもんの作者の藤子不二雄先生(藤本弘さん)は生前にジャイ子の名前のエピソードとして、「ジャイ子に名前をつけるのはやめよう。同じ名前の子がいたらいじめられるかもしれない」という理由で名前を付けなかったと言う。 僕はこのエピソードが大変好きで、まさに目線が読者に向けられた、漫画家の鏡のような方だと思ったのだが、しかし現実はどうかというと、ジャイ子に顔が似た女の子はあだ名がジャイ子だったし、嫌われていたいじめっ子に妹がいたらその子のあだ名はジャイ子である。 ジャイ子と同じ名前の子どもは救えたかもしれないが、ジャイ子に似た子は救うことはできないのである。 いろいろ書いたが、結論としてインパクトがあるものは陰にも陽にも影響が出てしかるべきであり、そのインパクトの強さこそがアニメというカルチャーの武器でもあると思う訳である。 無論その名前が特定の者を中傷したり差別を呼ぶものであってはならない。 またアニメの中で差別を呼ぶキャラクターを排除する事も違っている。 漫画家自身が魅力のあるキャラクターを生み出すことで、影響を与えるということを理解して行動をすることが大事だと思う訳である。 先の藤本弘さんは、自らの描くキャラクターがいじめにつながらないような祈りを名前に込めている。 世代を超えてこのエピソードを聞く子どもたちは、きっとジャイ子の名前をいじめの対象には使わないだろう。 大切なのは思いなのである。
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