インコ  こむらがえり

大阪人の愛すべき適当さ

(2015年05月03日更新)

  • インターネットを眺めていて急に思い出したのだが、昔岡山で営業をやっていた頃に、当時の上司との話の中で、大阪の「行く」という言葉がよく分からないという話になった。 その上司は名古屋の人で、大阪に居たことがあったそうだが、例えば荷物の置き場所なんかを大阪の人に言うと、「じゃあそこに行っといて」といわれることがよくあったと言う。 最初は「どこに行くんですか?」と聞き返したそうだが、「行く」が「置く」と同じ意味であることに気づくのに少し時間がかかったそうだ。 こういった言葉の変異については、このエッセイの最初「しりとり」でも書いたが、あるコミュニティーで作られた言葉が、その地域一体を締めて外に出て行かない、というようなことは存在する。 人の流動が低く、山などに阻まれて、外との交易が無いことが理由であることが多いが、これだけ情報が均一化していく中で、言葉・食・文化みたいなものが、どんどん情報として流されていくことで、大部分は標準化していき、やがて独特なものは淘汰されていくのかもしれない。 しかし、大阪出身で、人生の半分を大阪以外で過ごした人間からすると、大阪の言葉はやや独特な気がする。 それは先に書いた「行く」「置く」の言葉の問題だけでなく、言葉の中に特別なルールが存在していることに、独特さを感じる。 代表的な会話がある。 「社長さんとこ、景気はどうでっか?」 「いやあ、あきまへんわ。おたくんとこはどないです?」 「うちは社長さんとこと違って零細ですさかい、ぼちぼちでんなあ」 さすがに吉本新喜劇張りのコテコテなので、実際に使う人も少なくなったのだが、一応大阪人には通じる。 大阪以外の人でも、新喜劇の知名度が上がったおかげか、この辺の話の内容はたぶん伝わるだろう。 しかしこれを標準語にしてみると、実はまったく違う意味になってしまう。 「社長。会社の景気はどうですか?」 「正直だめですね。オタクの所は少しは良くなっておられますか?」 「私の所はオタクと違って、まだまだこれからですから。なかなか難しいですね」 言葉だけで構成するとこのようなところだろうか?(関東の方、違ったらすいません) 見た感じは良く似ているように見られるが、実は大阪の人から見るとそれこそ「ちゃうがな」になってしまう。 どこが違うかというと、大阪の上の三行を、直訳すると以下になるからである。 「こんにちは」 意味なんかないのである。 大阪人にとって景気は常に悪くて、常に相手より良くないのである。 つまり、「いい天気ですね」とか「息子さん元気ですか?」くらい意味のない言葉なのである。 では、何故こんな会話をするのかというと、大阪人の気質の一つとして「気ぃ遣い」というものがある。 「気遣い」と「気ぃ遣い」との違いは、気遣いは人を気遣うのだが、気ぃ遣いは相手ではなくその場の雰囲気を良くすることに気ぃを遣う。 例えば大阪には「~はる」という言葉がある。 これは所謂インスタント敬語の一つで、例えば相手に「○○をやっとけ」という場合に、言葉尻がきついので、「○○してくれはる」と遣う。 京都弁の「はる」と似ているが、使い方の雑さから考えると、敬語にするための接尾語みたいなものである。 先の会話の話に戻すと、社長との会話で景気の話をしているようだが、実は相手に対して気ぃ遣いをして、雰囲気を良くしてから話を始めるという、独特のルールが介在しているのである。 僕もよく他県の人に、「言葉がきつい」と言われるのだが、実は大阪人の概ねの人は、人を見てこの「気ぃ遣い」をやっている。 言葉がきついと思われるのはその独特の方言の問題で、意外と空気を見て話をしているのである。 大阪弁の持つ特異性は、この独特の言葉のルールみたいなもので、ニュアンスを捉えておかなければ、きつい言葉と感じるし、けったいな言葉に感じられてしまうのである。 要は、大阪人は言葉を記号としてではなく、ニュアンス(雰囲気)つくりの道具として捉えているのである。 その例として「こむらがえり」という言葉がある。 一応書くと足のふくらはぎがつって、痙攣する病気なのだが、大阪の一部では「コブラ返り」または「コブラ返し」と言う。 こむらがえりは腓(こむら)と書きこの漢字がちょっとコブラっぽいからかな?と思うところだが、大阪人に聞くと、「コブラに噛まれたみたいに痛いからちゃうん?」と返ってくる。(と思う。) 古来「こむら」は「こぶら」と訛って遣われていたこともあって、実は間違いではない。 しかし、情報がこれだけあふれた中で、「コブラ」では無いことを知りながら、「こむら」を遣わないあたりが、実に大阪人っぽいと感じるわけである。 よくよく考えるとコブラを日本人が認識するより前に「こむらがえり」はあったはずなので、コブラに噛まれて云々のくだりはおかしいのだが、確かにこむらと言われてもピンとは来ないが、コブラだと痛さを感じそうである。 この真実より雰囲気という考え方こそが、大阪人の愛すべき部分なのかもしれない。 最後に大阪出身の梶井基次郎の晩年の作「のんきな患者」で、実に大阪人らしいくだりがある。 大阪の下町で暮らす肺結核患者で、医者にもかかることができないくらいに貧しい中でも、主人公の男性が母親と、庭に来た渡り鳥を見てこんな会話を交わす。 「なんやらヒヨヒヨした鳥やわ」 「そんなら鵯(ひよ)ですやろかい」 「なんやら毛がむくむくしているわ」 「そんなら椋鳥(むく)ですやろかい」※ まるで漫才である。 大阪人の言葉使いとして、愛すべき適当さが描かれている。 ※経営書院 大谷晃一著:「大阪学」より引用
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