ドンキホーテ  てふてふ

歴史的仮名遣い

(2015年01月01日更新)

  • 明治の文豪といえば、夏目漱石や森鴎外を思い出す。 しかし、夏目漱石の小説を読んだ人は多いのに、森鴎外を読んだ人は多分少ない。 理由は、一度でも森鴎外の本を読もうと思った人ならわかるだろうが、漱石の作品は言文一致の文体で、比較的今の世の中の言葉使いに近い文章で書かれているのに対し、鴎外は所謂文語体や明治擬古文で書かれているため、読みにくいので挫折してしまう。 因みに文語体とは、簡単に言うと書き言葉の事で、言文一致の文体とは、話し言葉のように読みやすい文体にして書かれたものを指す。 尚、当時よく使われた明治擬古文というものがあるが、平安時代の和歌などを模して作られた文体で、国文学者や作家などが文章の臨場感を出すために、わざとこの文体を利用していたらしい。 わざわざ読みにくくせんでもとは思うのだが、明治時代は文学も黎明期にあったようだ。 この言文一致の文体を世に広めたのは、二葉亭四迷と漱石である。 二人が朝日新聞社に在籍し、新聞連載の作家だったことが、言文一致の文体を広めたことと、無縁ではないと考えられる。 当時新聞は新興のメディアであり、その部数を伸ばすために、現代的で革新的な文体を奨励していた。 もちろん自身の文学に対する考え方もそこに関与はしていただろうが、それが功を奏してか、漱石の文学などは今も課題図書になったりと、今もお手本的な立場で本が出版され続けている。 当時は言文一致のような、文体そのものを変えていこうという動きは、国語教育の現場でもあって、有名な話だが、表音主義者から国語教育の簡易化として、漢字を廃止して、ローマ字かまたは仮名を使用しようという動きもあった。 その中で、表記と発音が大きく異なる場合がある歴史的仮名遣いの学習も非効率なので、表音的仮名遣いを採択しようという動きもあった。 しかし、こちらは文学者や多くの国民の反対もありこの時は見送られている。 現代の僕たちから見ても、漢字を無くすなんてなかなか思い切ったなあとは思うのだが、積極的に海外の文化を取り入れようとしていた時代背景からすると、カタカナ文字の外国と交流していくのに、漢字は不要だったということなのかもしれない。 しかし、そもそも何故話し言葉と書き言葉が異なるのか? この説明はちょっと長いので詳しくは、ググってもらいたいのだが。 簡単で且つ乱暴に言ってしまうと、例えば小説でも何でもよいのだが、僕たちが何か文章を書く時、その文章は書き言葉よりも簡潔に、且つ様々なルールに基づいて書こうとする。 例えば「師は言った」いう言葉も、「師、曰く」とすることで簡潔な文章になる。 文語体とは言わばそのルールに立って文章を書いていく行為であり、ルールを知らない人は読みにくくなってしまう。 では何故ルールがあるのか? これは書き言葉と話し言葉の進化の差と言える。 当たり前だが話し言葉の方が先に進化してしまうので、書き言葉はその差を埋めることができない。 そのため、ルールを敷いて書き言葉独自の進化を行うことで、話し言葉との差を埋めた訳である。 例えば方言が分かりやすい。 方言はその土地の人は分かるが、その他の人は分からないことが往々にしてある。 文章は不特定多数が見ることが想定されるため共通の言語が必要となる。 ここに口語体と文語体の違いが生まれることになる。 大なり小なりはあるが、現代でも若者言葉をおじさんおばさんが分からないように、若い人から見た標準語で構成される書き言葉は、自分たちが普段使う言葉と違うので、何となく理解は出来る話ではないだろうか? 一方で歴史的仮名遣いというものが存在する。 「歴史的仮名遣ひ」の「ひ」の部分である。 仮名遣いについては戦前戦後で完全に形態が変わったわけだが、これはGHQの統制で変更させられたため、今は大部分が残ってはいない。 しかし、その頃の残骸として残されている言葉もないわけではない。 例えば「こんにちは」などは「こんにちわ」と読むが字面にすると「は」が正しい。 こんな感じで、ぱっと聞いただけでもややこしい感じのする歴史的仮名遣いは、江戸から明治にかけて体系化された言葉であり、平安時代の仮名遣いをベースに作られている。 お手本が古いからか、「てふてふ」など、実際の読みとは異なる表記をしていた。 もちろん「てふてふ」を読むときは「ちょうちょう」と読む。 ならば最初からそう書いておけよと言いたいところだが、芥川や鴎外が反対したように、古典文学を扱うものからすれば、歴史ある文体を消し去ることに対し、大きな抵抗感があったのだろうか。 歴史的仮名遣いの具体例として、もう少しだけ触れる。 歴史的仮名遣いは、先述のように「こんにちは」などは「こんにちわ」となる。 例の場合は、語頭以外の「は・ひ・ふ・へ・ほ」を、「わ・い・う・え・お」と呼ぶルールである。 他には「帰らむ」のように語尾につく「む」を「ん」に読み替えるものとかがある。 また、表音文字の中ではワ行の「ゐ・ゑ・を」なんかは「い・え・お」と、既にあ行で出た読みを、違う字に当てて登場するパターンもある。 要は前後の単語によって、読みが変化するのである。 ブルーハーツの後が入れ替わったことで名前が変わったハイロウズみたいななものだろうか? そして最後であるが、「てふてふ」のように、母音(あいうえお)を繰り返す単語は、長音化させるというルールもある。 例えば「てふてふ」は発音させると「てうてう」となり、その発音は「teuteu」となる。 発音の中に眠る母音は「eu」である。 歴史的仮名遣いでは、この母音の法則は、以下に変換させる。 au(あう) → o
    iu(いう)→ yu
    eu(えう)→ yo
    ou(おう)→ o
    こうして書くと、そんなに難しいルールではないのだが、文章を書くときに面倒くさそうだなあという気はする。 しかし、「てふてふ」を「ちょうちょう」と書くのは現代の感覚からすると当然として、「こんにちは」なんかは、表音文字を考えると、カナは「は」でも「わ」でも良いように思う。 少し話が長くなったので、結論を書くと、こういった言葉の問題は、日本語の利点であり欠点であると言える。 過去日本人はいろいろな言葉を交ぜて日本語を作り、それぞれのルールを重んじた結果、言語としては随分とややこしくなってしまっている気がする。 僕は第二次世界大戦の日本に興味があって、いろんな本を読んできたのだが、民族の危機に面したあの戦争でも、日本人の大抵は心には戦争反対でありながら、声には戦争賛美を掲げていた。 今の国防のあり方を見ても、本音では自衛軍は必要とうたいながら、いざ憲法改正に踏み出すのは躊躇する。 こういった傾向は今回書いたような文章の体系にも現れていて、いろいろな考えを取り込みすぎて、もうなんだか交通渋滞化してしまっている感じがする。 なんだかスッキリする方法はないかなあと新年早々考えていたら、携帯が鳴って見るとLineに「あけましておめでとう」メッセージが来ていた。 見ると、「2015おめ」と言う文章と着物を着た女の子のかわいいイラスト絵文字付きでちかちか点滅していた。 めんどくさいんかと一瞬イラっときたが、伝わったのでまあいいかと思い直すが、同時に「ああ絵があるね」と思った。 絵文字は口語と文語を織り交ぜたまさに新しい表現と言える。 いろいろ書いたが、ネット時代に文語も口語もねえなあと思ったわけである。 というわけで、2015年あけましておめでとうございます。
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